寄稿のページ

  ベートーベンについてのエッセイを載せる。
  伊藤隆氏はNTTの中央研究所に長く研究職で務めていた方で、国分寺の地元でお付きあいさせていただいている。
  血色、知的な論理展開、がっしりとした体格は 「カザルス」 に似ている。チェロを演奏される。

ベートーベンの苦悩と兄弟愛
 「ハイリゲンシュタット遺書」
 に見るベートーベンの人間像


伊藤 隆

  いまから9年前の1999年の正月、私はウィーンにいた。松本にいる妹が、所属する合唱団とともにウィーンに行き、 文化交流の一環としてそこの楽友協会大ホールで交歓演奏会をやることになり、音楽の本場でどんなことになるか……と、ちょっと心配で、単身その後を追った。 毎年のニューイヤー・コンサートで有名なこのホールの最前列に陣取って演奏を聞いた私は、並み居るウィーン子たちの大きな拍手にホッとした。

  翌日、せっかく来たウィーンだからと電車とバスを乗り継いで 3、40分郊外のハイリゲンシュタットの丘を訪れた。 ここは、聴覚障害に苦しむベートーベンが、治療と静養を兼ねてしばらく過ごした場所で、 またそこを流れる小川のせせらぎを (多分、かすかに) 耳にして交響曲第六番の 「田園」 を作曲した場所でもある。 私はどうしてもその辺りを散策し、出来ればその小川のせせらぎの音を聴いて見たかったのである。そして、運良くその望みは果たされた。

  それに加えて、近くにあった 「ベートーベン協会展示室」 を、休館日であったにもかかわらず好意的に見せてもらい、数々のベートーベンの遺品などを見学した。 そこにはベートーベンが愛用したピアノとか、ナポレオンに捧げた後、彼がフランス皇帝の地位についたのに憤慨し、 表紙に書いた献呈の辞をペンで塗りつぶしたことで有名な交響曲第三番 「英雄」 の楽譜などがあった。 その他沢山の手紙などがあったが、とてもひとつひとつ読むことは出来ないので、最後に管理人のおばあちやんにお礼を云って玄関を出ようとした。 ところがこのおばあちゃん、やにわに私の手を取って小さなパンフレットを渡し、「ヤバーニッシュ、ヤバーニッシュ!」 と指さした。 何のことか分からず開いてみると、日本語で 「ルードヴッヒ・ファン・ベートーヴェン 『ハイリゲンシュタットの遺書』」 と書かれていて、 以下その手書き原文のコピーと (今井顕氏の) 邦訳が載っていた。この遺書は、ベートーベンの死後遺品の中に見付かったという。 貴重な資料を手にして、おばあちやんにもう一度お礼を云い、辞去した。

  このパンフレットはその後旅の忙しさで帰国するまで目にしなかったが、旅の疲れのとれた数週間後、わが家でじっくり目を通して驚いた。 というのは、いままで私が持っていたベートーベンという人物のイメージとはかなり違った、彼の人間像が浮かび上がったからである。 つまり、われわれが一般に受け取るベートーベンの印象というのは、その顔付きからしても運命に立ち向かう強烈な意志を内に秘めた大作曲家、 しかしそれだけに世間的な人間関係では気難しい、かなり偏屈な性格の持ち主……、というのが普通である。 だが、このパンフレットは、そうした私の認識を覆 (くつがえ) した。ハイリゲンシュタットでのベートーベンが、音楽家としては致命的な不治の聴覚障害を自覚し、 絶望のなかで自殺まで考えながらもその宿命を勇気をもって受けとめ、芸術活動に全力投球したうえで粛然と死期の到来を受け入れようとしたこと、 そればかりではなく、こうした状況の中で細やかに意を用いて弟たちに愛情を注いでいることに触れ、 いままで知らなかったこの楽聖の生身(なまみ)の人間像に接して畏敬の念を深めた次第である。

  ではその 「ハイリゲンシュタットの遺書」 と云われる二人の弟当ての二通の書簡のうち、 三十二歳のベートーベンが1802年に4歳と6歳年下の弟カールとヨハンに送るべく書いた一通を、つぎに紹介しよう。

  『わが弟たちカールと 「ヨハン」 ベートーヴェンへ。おお、おまえたちは私が意地悪く強情で人嫌いのように思い、そのように広言しているが、 なぜそんな不当なことをしてくれるのだ。もしそのように見えたとしても、おまえたちはその本当の原因を知らぬのだ。 私の心と魂は、子供の頃から優しさと、大きな事をなしとげる意欲で満たされて生きてきた。だから私が6年前から不治の病に冒され、 ろくでもない医者たちによって悪化させられてきた事に思いを馳せてみなさい。 回復するのでは、という希望は毎年打ち砕かれ、この病はついに慢性のもの (もしかして治癒するにしても何年もかかるだろうし、だめかもしれない) となってしまった。

  熱情に満ちた活発な性格で社交も好きなこの私が、もはや孤立し、孤独に生きなければならないのだ。すべてを忘れてしまおうとした事もあったが、 聴覚の悪さがもとで倍も悲しい目に会い、現実に引き戻されてどれほど幸い思いをしたか。もっと大きな声で叫んで下さい、叫んで下さい、 私はつんぽなんです、などと人々にはとても言えなかった。他の人に比べてずっと優れていなくてはならぬはずの、以前には完壁で、 音楽家の中でも数少ない人にしか恵まれなかった程の感覚が衰えている、などと人に知らされようか── おお、私にはできない。 だから、私は昔のように喜んでお前たちと一緒におらず、ひきこもる姿を見ても許してほしい。こうして自分が誤解される不幸は、私を二重に苦しめる。 交遊による気晴らし、洗練された対話、意見の交換など、私にはもう許されないのだ。どうしても避けられない時にだけ人中には出るが、 私はまるで島流しにされたかのように生活しなければならない。 人の輪に近づくと、どうしようもない恐れ、自分の状態を悟られてしまうのではないか、という心配が私をさいなめる。

  賢明な医者が私の気持ちをほぼ察して勧めてくれた 「できるだけ聴覚をいたわるように」 という言葉に従って、この半年ほどは田舎で暮らした。 人恋しさに耐えきれず、その誘惑に負けたこともあった。だが、そばにたたずむ人には遠くの笛が聞こえるのに、私には何も聞こえない、 人には羊飼いの歌声が聞こえるのに、私には何も聞こえないとは、何という屈辱だろう。

  こんな出来事に絶望し、もう一歩で自ら命を断つところだった。芸術、これのみが私を思い止どまらせたのだ。 ああ、課された使命、そのすべてを終えてからでなければ私は死ねそうにない。だからこそこの悲惨な人生をたえ忍んできたのだ──何とみじめなことだろう。 最上だった状態から突然奈落の底に突き落とすという変化をもたらしたこの過敏な身体──忍耐──これこそが私のこれからの指針でなければならない、 そう決心した── 呵責ない運命の女神が生命の糸を断ち切る日まで、この気持ちを見失わないよう願い続けている。 ひょっとすると良くなるかも知れないが、ならなくても心の準備はできている── 早くも28歳にして悟りを開かなくてはならないとは、容易ではない。 芸術家にとってはなおさらだ。

  神よ、御身は私の心中を見おろし、もうわかっておられる。そこには人間愛と、善行への欲求あることをご存知だ──  おお、世の人々よ、いつの日か汝らがこれを読めば、汝らがいかに不当なことを私にしたか悟るだろう。 不幸を背負う者は、ここに自然界のあらゆる障壁にも負けず、能力の範疇にあるすべてを成し遂げた立派な芸術家また人間として並び称されんとしていた人間を見出だし、 その慰めとするだろう── 我が弟たちカールと [ヨハン] よ、私が死んだ時シュミット教授がまだ存命中だったら、 死後できるだけ多くの人々が私のことを少なくとも理解し、許してくれるように、病気についての記述を私の名前で依頼し、 この文に添えてくれ── それと同時におまえたちを少しばかりの財産 (そう呼べるならば) の相続人として宣言する。 誠実に分け合い、仲良く助け合いなさい。おまえたちの仕打ちは、知っての通りもう以前から許されている。弟カールよ、最近のおまえの好意には特に感謝している。 おまえたちが私よりももっと良い、心配の少ない生活を送れるよう望んでいる。子供たちには徳を薦めなさい。これこそが幸福をもたらすのだ、金ではない。 私の経験を振り返っても、私を苦悩から救いあげてくれたのはこれだった。私を自殺の危機から守ってくれたこの徳と、そして芸術には感謝している──

  つつがなく、お互いいつくしみあうように──。すべての友人、とくにリヒノフスキー侯爵とシュミット教授に感謝を捧げる。 1 [リヒノフスキー] 侯爵からの楽器はおまえたちのうちいずれかの手許に保存されるように願うが、それを原因として争いを起こさぬように。 もっとも有効な使いみちが考えられる時には、売ってしまいなさい。墓石の下からでもおまえたちの役にたてるならば本望だ──。

  これでおしまいだ── 喜んで死に対峠しよう── だが、ただでさえも厳しい運命に加え、死が私の芸術が熟し切る前に訪れぬよう、 今しばらく時間を与えたまえ── いや、それまで待ってくれなくとも私は満足だ。いつでも来るが良い。 おまえを勇気をもって迎えよう── さよなら。私が死んでも忘れないでくれ。私はおまえたちを幸福にしようとしゅっちゅう考えていたのだから。幸せに──
   ルードヴィヒ ファン ベートーヴェン
ハイグルンシュタット 1802年10月6日』


 末筆ながら一言。今年84歳になる小生、最近とみに耳が遠くなり、家内の言葉を何度か聞き返すようになった。そのくせ家内に何度か聞き返されると、 次第に声を張り上げて腹を立てる。だが、考えてみれば家内だとて耳は遠くなってきているはず、お互い様だ。 だから声は張り上げても立腹だけはこらえなければ── と自戒している。ベートーベンに比べればはなはだ次元の低い自戒だが・・。
  ※ 「28歳」 はべ−トーベンの思い違いで、正しくは 「32歳」