今、コミットしている現場から  梓澤和幸


NHK受信料請求訴訟の帰趨── 一審判決と憲法上の問題

法と民主主義 2009年11月号
梓澤和幸 被告弁護団共同代表

  はじめに

  NHK受信料請求訴訟は2009年7月28日東京地方裁判所民事12部の法廷で、被告とされた2名の市民に対し、それぞれ受信料8万3400円を支払えとの判決が下され、 第一審の結論を見るところとなった。判決理由中の判断は後述するが、弁護団の主張と土屋英雄教授意見書の情熱的な論旨にがっぷりかみ合うものとはいえなかった。 訴訟進行中NHKに対する女性国際戦犯法廷訴訟東京高裁判決で政治家による介入の事実が認定され、 NHK内部でインサイダー摘発事件など不祥事があらたに起こるなどのこともあった。 また被告側から憲法違反の主張も出され、判決の結論と理論構成には期待するところも少なくなかったが、結果はやや平凡という他はなかった。

  しかしながら、被告訴訟代理人としての訴訟活動の中で考えさせられるところもあり、また憲法訴訟、表現の自由にかかわる訴訟として、 いくつかの理論的問題も残されたので、控訴審、やがて迎えるであろう上告審に向けていくつかの論点と考察を記しておきたい。

  第一 受信料請求訴訟が起こされた事情

  本件提訴は、ただ三人(判決時には二名となったが)の被告に対する請求の当否にとどまらない性格を帯びていた。
  すなわち、NHK職員による多額の横領事件(起訴罪名は詐欺)などの不祥事、政治家による番組への介入(女性国際戦犯法廷の番組改編)などの影響により、 受信料不払い者数は一挙に増え、2004年から2005年にかけて約112万件に達していた(2006年10月6日付 読売新聞)。
  2005年9月には237億円の減収が確認され、年間では500億円の減収予測となった。

  NHKは、2007年1月29日東京高裁判決で、女性法廷問題で政治家の発言への過度の忖度があったとする指摘を受けたが、それに対する反省は示さないまま、 受信料請求の民事督促手続に踏みきった。
  この手続きは経営上の起死回生の策だったのである。
  本件訴訟の被告は、このような督促手続を受けた人々の中にあって、 かかる無反省の請求は納得いかないとして督促手続に意義を申し立て訴訟手続に移行した人々だった。

  第二 被告弁護団の基本的な構えと第一審初期中期の訴訟活動

  以上のような状況で起こされた訴訟であるから、被告側にたった弁護士としては第一に次の点を考えた。 すなわち、契約の成立→要件事実の充足→受信料を支払えといった形式的な審理と早期結審はどうしても回避をしたいということである。

  裁判所に訴訟の意義、重要性を理解してもらうために、毎回の口頭弁論期日で被告の準備書面要旨を口頭で陳述説明し、合議体に聞いてもらうように努めた。 この点、澤藤統一郎弁護団共同代表の奮闘は目覚ましいものであった。澤藤弁護士は弁護団席に立ち上がると裁判官席を見ながら、 そして傍聴席にもよく通る声で 「これは前例のない大変な訴訟なのですから、前例のない審理が行われなければならない」 と説いた。 裁判所は被告側が口頭で主張を述べる点については、辛抱強く聞いてくれたと思う。 筆者がある口頭弁論期日で 「あるいはこのような意義の小さい事件とお考えかもしれないが……」 と陳述すると、 裁判長は速やかに 「裁判所は必ずしもそう考えておりませんので……」 と述べる場面もあった。

  第二に被告弁護団が考えたことは、法律上の主張として私法上、憲法上の主張を理論的にしっかりと構築し、NHKとがっぷり四つに組むことであった。 事実に関する主張としては、それぞれの被告につき、受信契約が成立するに至っていないとか、 契約当事者の妻の契約締結行為が日常家事連帯債務(民法761条)の範囲に入っていないことなどがあり、これはこれで充分に主張として成立するものであり、 実際に事実関係を巡る証拠調べは比較的充実して行われたと言える。

  しかしながら、本稿の目的としては、主として被告側の掲げたNHK受信契約の基本的性格とそれに関連する憲法上の主張立証と裁判所の応答について述べることなので、 私法上の主張については本稿では割愛し、別の機会に譲りたい。

  被告弁護団が行った憲法上の主張とは、@ 受信料制度の歴史的性格、A NHK受信契約の特殊な過度の拘束力の問題点、 B 受信料の支払い強制は思想良心の自由に反する、C 受信料強制徴収は知る権利―表現の自由(憲法21条、国際人権規約19条)違反―、 D NHK受信料請求は、人格権(憲法13条)の侵害であるなどの主張であった。以下、上記の主張を簡潔に説明し裁判所の応答を述べたい。

  第三 受信料制度の歴史的性格
―放送法の歴史及び放送法の準憲法的性格―

1 被告弁護団は受信料請求訴訟を憲法問題と把握し憲法上の主張を展開するに至ったが、 それは日本放送協会の成立の経緯ならびに放送法の歴史を研究することによってなしえたことであった。 ここで、簡潔に戦後の放送制度がどのように出発したのかを叙述しておきたい。

  戦前の放送は政府管掌の下におかれた無線電話につき、政府がこれを放送用に許可するという法形式で出発した。 戦前の無線電信法の下では、逓信省が1924年から19255年にかけて出願団体を絞り込み、東京、大阪、名古屋に社団法人を発足させ放送を許可したことが、 日本における戦前の放送制度の始まりである。当時の放送に対する政府の支配統制は著しいものがあった。 外交、軍事機密、刊行書の秘密、議会の非公開議事の内容、官庁が放送を禁止した事項、政治上の講演または論議は放送禁止事項とされていた。

  さらに無線電信法では、番組内容または梗概を逓信省に届け出る事前検閲制が取られていた。当時のラジオ聴取料は次のような性格のものであった。 聴取者は、それぞれの地方の逓信局長宛に聴取無線電話施設願いを出す。これには聴取承認書、のちの聴取契約書を添えなければならないとされた。 聴取者は逓信局と私法上の聴取契約を結ぶこととされ、契約なきラジオ聴取は無線電信法で処罰された(日本放送協会編 「放送五十年史」 日本放送出版協会  1997年 16頁ないし17頁)。

  以上の制度の中核には、電波は政府のものであるという思想がある。このような放送制度は、必然的に放送をして権力の侍女という役割を果たさせた。次の事実がある。 1936年6月閣議決定に基づいて設立された内閣情報委員会は1940年12月には内閣情報局という強力な言論統制機関に成長し、 多数の現役軍人が重要ポストに就いた(家永三郎著 「太平洋戦争 第2版」 岩波書店 1986年 159頁)。 放送番組の企画編成はすべて内閣情報局の指導の下に進められるようになった(松田浩著 「NHK−問われる公共放送」 岩波書店 2005年 61頁)。 NHKの前身である日本放送協会のラジオ放送が、今ではよく知られた満州事変の発火点とされた柳条湖事件の日本軍の謀略や、 南京事件の残虐行為などの真実を伝えなかっただけでなく、国民の好戦意識を鼓舞する放送を行った。 例えば、1941年12月8日の対米戦争開始の際の帝国陸海軍部発表と題する臨時ニュースのラジオ放送は、 単に軍部の発表をそのまま伝えるだけでなく国民の好戦意識を先導する勢いに満ちていたことは、少なからぬ人々の耳に記憶となって残っている。 それはアジアと日本の民衆に塗炭の苦しみをもたらす事態の開始を告げるものであった。その後の戦争の歴史はここで改めて繰り返す必要もないであろう。

  2 戦後メディアの民主化とNHK並びに受信料制度の発足

  戦後、メディア内部の労働運動による戦争責任追及と民主化運動、米占領軍による民主化、日本国憲法の施行などの一連の戦後改革の波はNHKにもおよび、 会長人事、番組内容の変革なども行われたが、法的な変革としては憲法施行後にあたる1950年の電波三法(放送法、電波法、電波管理委員会設置法)の成立と、 無線電信法の廃止がもっとも大きな出来事であった。 鈴木安蔵氏とともに憲法改正史に名を残す高野岩三郎氏がNHK初代会長であったことは記憶にとどめられてよいだろう。

  電波管理委員会法は政府の人事、免許への介入を防止する構想をうたい、放送法は1条で放送の最大限普及、放送による表現の自由の確保、 放送の民主主義への貢献をうたった。戦前の放送の歴史をみるとき、これは日本国憲法の放送分野への具体化とも言うべき立法だったと言える。

  <放送はパブリックフォーラムであるという法思想>

  明治憲法下で電波は政府管掌のものとされた。承認なきラジオの聴取は処罰の対象となった。
  それではいま、電波は誰のものなのか。
  それは空や海といった環境が誰のものかという問いに似ている。それは市民社会を成立させるために必要な公共の財産である。 放送は人体の血管のようなものである。そのよりよき運用により、情報と意見の自由な流通が確保されてはじめて、民主主義社会が成立するのである。

  受信料制度は新憲法の下、主権者である市民が、民主主義の道具である放送に 「参加しつつ支える」 というダイナミックな構想のもとで放送法に組み込まれたのである。 放送法1条の目的や32条の受信契約の強制規定はそうした考えに基づく。 国会答弁などでも受信料は強制して取り立てるべきものではなく、視聴者の自発的意思で収めるべきものとの見解が開陳されてきた歴史がある。

  視聴者参加による公共放送の構想──私たちはこれを 「放送はパブリックフォーラムである」 と言い表して訴訟で主張している。

  学説上も電波──放送もパブリックフォーラムであるとの見解が有力に存在している。電波を単純な公物(政府管掌)とみるべきでなく、 表現の自由を保障することこそが重要とする行政法研究者の見解があり(塩野宏著 「行政法L(第三版)」 有斐閣 2006年 320頁)、 奥平康弘教授は早くから、放送は伝播力からみるにパブリックフォーラムとしての使命を新聞以上に強く持っていると主張している (日本民間放送連盟研究所編 「放送の自由のために」 日本評論社 1997年)。

  放送法や受信料をめぐる従来の議論では見落とされていたか、過小な扱いしか受けていなかったと思われるのだが、実は戦後の放送法成立は、 言論法上重要な出来事なのであった。

  第四 被告の主な憲法上の主張

  本件における被告側の憲法上の主張の主なものは、@ 受信料の強制徴求は思想良心の自由の侵害である、 A 受信料の強制徴求は表現の自由―知る権利―の侵害である、B 受信料の強制徴求は人格権―自己決定権―(憲法13条)の侵害である。 以下、それぞれの主張内容につき述べる。

1 思想良心の自由の侵害
  思想良心の自由は、精神的自由の中核をなす。人が内心において何を考え、何を考えないか、いかなる価値を選択し、いかなる価値を選択しないか、 これはそれぞれの人の完全な自由に属し、公権力ならびに公権力に匹敵する社会的勢力はこの自由を侵害してはならない(憲法19条)。

  放送法32条によると、市民はテレビ受信が可能な設備(以下、「テレビ受像器」 という。)を揃えたときは、NHKとの受信契約をなすことを強制される。 そして、受信規約9条によるといったん受信契約を締結した以上、テレビ受像器を廃棄または破壊するまでは受信契約を解約したり、 受信契約関係から離脱することは許されない。

  本件のように、政治家の干渉を許し、不祥事が続発するNHKに嫌気がさし、もはやNHKの流す放送を受信したくないという判断に到達したとする。 しかし、それでも市民は上記のような契約条件から、受信契約からの離脱が許されないのである。 それでもNHK放送を見なければよいのだから、別にNHKを見ることを強制されている訳ではないとの反論もありそうだが、 NHKの財産的資源の一部を担うという法的関係に拘束され、しかも任意に支払うことを拒否しても本件のように司法上の手続を利用して強制徴求が行われるのである。 それは、市民の内心の自由に対する侵害である。

2 表現の自由―知る権利―の侵害
  「表現の自由は情報発信、情報受領、情報収集の自由で構成される」 (松井茂記著 「日本国憲法 第3版」 有斐閣 2007年 445頁及び477頁)。 このことはレペタ訴訟最高裁判決(最判平成1年3月8日判決)の判旨 「憲法21条1項の規定は、表現の自由を保障している。 そうして、各人が自由にさまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成、発展させ、 社会生活の中にこれを反映させていく上において欠くことのできないものであり、 民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも必要であって、 このような情報等に接し、これを摂取する自由は、右規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところである。」 (メディア判例百選(別冊ジュリスト179号) 10頁−4事件)で明らかにされ、また、国際人権規約(自由権規約19条2項)に次のように実定法化されている。 すなわち、「すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、 国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む」 と。

  ところで前記のとおりいったん受信契約を締結した者は、NHKの放送を見たくない、聞きたくないと考えるに至ったとしても、 テレビ受像器を廃棄または破壊しなければNHKの視聴者たる地位から逃れることはできない(受信契約から離脱できない)のである。 そうすると、受信契約の当事者である市民は、どうしてもNHK放送を視聴したくないとの意思を貫こうとすれば、テレビ受像器を破壊しなければならず、 従って民間放送を視聴することができなくなる。NHKテレビの視聴自体を強制されないとしても、視聴している者とみなされ、 受信料を強制徴求されるのである。このことは何を知るかを選択する自由を侵害されているのであり、すなわち憲法21条、 自由権規約19条が保障している表現の自由―知る権利―の侵害にあたるのである。

3 人格権―自己決定権―の侵害
  受信契約からの離脱の自由がないことは以上のとおりであるから、受信契約当事者である市民は、いかなる情報を選択するかにつき自己決定権を侵害される。 これは憲法13条が保障する人格権の侵害であり、自己決定権の侵害であると言わざるを得ない。

  なお、以上は憲法上の主張であるが、被告は重要な法的主張として消費者契約法7条違反―受信契約の無効―を主張しているので、ここに簡潔に記しておく。 それはこういうことである。すなわちNHKとの間に契約を締結する者に対して、いったん契約関係に入ると受信機を廃棄、 または破壊しなければNHKとの契約関係を終了させることはできないというほぼ永久的な契約による拘束を受けることについて、 情報が偏在することが明かなNHKにおいて消費者である視聴者に対し、このような重要な情報が告知されていないこと、 これは取消期間内であれば当然消費者契約法10条により取り消し対象となるところ、かかる重要な告知義務違反の場合には契約それ自体が無効になると言う主張である。 本件の場合も被告二名に対して、上記のような説明はなされないままの契約であったから、 受信契約は無効であるとの主張であった(なお、この点について裁判所の応答はほとんどなきに等しいものであった)。

  第五 土屋英雄教授の鑑定意見書

  弁護団は、被告側の憲法上の主張を理論的に裏付けるため、憲法研究者である筑波大学院土屋英雄教授(憲法学専攻)に意見書の執筆提出をお願いした。 土屋教授は、おりから 「NHK受信料請求は憲法違反だ」 (土屋英雄著 「NHK受信料は拒否できるのか―受信料制度の憲法問題」 明石書店 2008年) という本を発刊されておられ、この問題について最も造詣の深い方と考えられた。

  2008年12月、土屋教授は意見書を完成され、弁護団はこの意見書を乙号証として提出の上、土屋教授を証人として調べるよう裁判所に請求した。 (証人申請は却下された。)
  意見書は、A4版55頁にわたる力作で裁判所の出す結論への影響が大いに期待されるところであった。

  憲法上の主張に関わる意見書の主な内容は次のようなものであった。

  意見書の憲法に関わる内容の紹介に入る前に、放送法が定める受信契約の成立の仕組みを述べておきたい。 この仕組み自体が憲法規範による評価の対象となるからである。

1 放送法32条1項の規定
  テレビ放送を受信できる設備(以下、「テレビ受像機」 という。)を設置した者はNHKとの間に受信契約をしなければならない(法32条1項)との規定がある。

2 契約の内容は総務大臣の許可を受けなければならない(法32条3項)。
  この契約内容を定めた付款をNHKは放送受信規約として定め、総務大臣の許可を受けている。
  この放送受信規約の内容が問題となる。とくに問題なのは、受信規約3条2項で、受信契約を解約するときは、 テレビ受信機を廃止しなければならないと定めていることである。NHKを見たくないと考える視聴者は、およそテレビを破壊しない限り、放送受信契約から離脱できない、 と定めていることである(日本放送協会放送受信規約3条2項)。
  視聴したくないとの考えを抱き、民放だけを見ようとしてテレビ受像機を残しておくと、 その視聴者はたとえNHKを見ていないことを証明したとしてもなおNHK受信契約を解約できないのである。
  加えて、NHK受信規約には、契約当事者である以上、受信料支払い義務があるとの規定(日本放送協会放送受信規約5条)がある。

  土屋教授は契約締結義務と受信料支払い義務を直結してしまうNHK受信規約の欺瞞性を意見書中で厳しく批判している(土屋意見書13頁)。
  契約が締結されている以上、受信料支払い義務が発生するのは当然ではないか、との反問がありそうなので付け加えておくと、 仮に受信契約が有効に成立していたとしても、受信料義務は自然債務だとする説明がNHK関係者からも述べられていたことがあるのである。
  そして、本件のように強制徴求するのであればそのことが憲法違反なのだ、とする点が重要である。

  前置きが長くなったが、土屋意見書による憲法学的解明に入ろう。
  土屋意見書は、NHKと受信契約を締結した者は、NHKの放送内容に同意できず、これを見たくないと考えたとしても、 その視聴者が受信契約を解約できないことを思想良心の自由の侵害だとする。

  土屋教授は思想良心の自由には次の点が含まれるとしている。すなわち、外部からの一定の作用、働きかけ(強制、義務化、要求、勧誘など)によって、 自己の思想・良心の領域が侵害されている場合に、その思想・良心を保護防衛するため、外部からのそうした作用、働きかけに対して防衛的、 受動的にとる拒否の外的行為は、自己の思想・良心の自由の保障に不可欠な思想 ・良心の外部的表出として憲法19条の保障対象になるというのである(土屋意見書25頁)。

  そして、テレビ受像機を設置した者は、受信契約を強制される(放送法32条の2-1項)のであるが、前記の通り、テレビ受信機を廃棄、または破壊しなければ、 その者は契約を解約できないこと、そのことが、NHK放送に対する内心の評価を強制することになる、というのである。

  ここで土屋意見書は、重要な判例を引用している。
  それは、希望ヶ丘自治会事件の2007年8月4日大阪高判、並びに同事件の2008年4月3日最決である。
  次のような事件と判旨であった。

  滋賀県甲賀市甲南町の希望ヶ丘自治会は、赤い羽根共同募金ほか、教育、社会福祉関係の団体への寄付金を任意に集めてきたが、2006年3月の定時総会で、 寄付金集めのための幹部の負担を減らすため、従来4000円の年会費を6000円に値上げし、 増額した2000円の会費徴収額を従来の寄附してきた実績のある先に寄附することを決議した。
  これに対し、不服をもった五名の住民がこのような会費の徴収は、憲法の思想、良心の自由を侵害するとして、自治会決議の無効確認を求めて、提訴した。

  これに対し大津地判(2006年11月27日)は請求を棄却したが、大阪高裁2007年8月4日判決は、決議無効の判決を下し、本件との関係で注目すべき次の判断を下した。
  「本件決議に基づく増額会費名目の募金及び寄附金の徴収は、募金及び寄附金に応じるか否か、どの団体等に(寄附を、筆者注)なすべきか等について、 会員の任意の態度決定を十分に尊重すべきであるにもかかわらず、会員の生活上不可欠な存在である地縁団体により、 会員の意思、決定とは関係なく一律に、事実上の強制をもってなされるものであり、その強制は社会的に許容される限度をこえている、とし、 そのような自治会費の徴収をきめた、自治会決議は公序良俗に反して無効である、として、原告らの請求を認めた。
  最高裁2008年4月3日決定も同様の結論をとった。

  土屋意見書は、大阪高裁、最高裁決定の論理にならえば、NHKの放送内容、政治介入、不祥事を嫌悪して不払いを続ければ、 支払いの強制を受けるという不利益を蒙るのであり、それは、思想、良心の自由すなわちNHKに対する態度を自ら決めることができる自由を侵害する、というのである。
  土屋意見書は、受信料強制徴収が、知る権利の侵害になることについて、受信料を払わずにすませようとすれば、テレビ受信機を廃止せざるを得ないので、 民間放送も受信できなくなり、放送による情報の遮断を招くとした。

  第六 判決の応答と検討

  本判決は前述のごとく原告の請求をそのまま認容したが、その理論の構成は要旨次のとおりである。

1 思想良心の自由(憲法19条)違反の主張について
  判決は、被告らが原告について政治的介入を許容し、放送受信料を不正に流用し、説明責任を尽くしていないと認識し、 放送受信料を支払いたくないとの判断を一つの物の見方、考え方として尊重されなければならないとした。 しかしながら、判決は、受信料の請求は受信機を廃止しない限り、放送受信契約の解約を禁止したとしても、 それが原告の放送内容や経営活動を適切と肯認するよう強制するものではなく、また被告らの認識自体の変更を迫ったり、 その認識を理由として不利益を課すものではないとした。そして、放送法32条の契約締結強制や放送受信規約の拘束力については、 ウェブサイト等により事前に知り得たのであるから、被告らは自由な意思に基づいて本件放送受信契約を締結したものとして、 原告の措置が思想良心の自由を侵害するものではないとした(判決書15頁)。

2 表現の自由(憲法21条1項、国際人権規約自由権規約19条1項)違反について
  放送法32条は、放送受信契約の締結や放送受信料の支払いを強制するものにすぎず、それは民放のテレビ番組の視聴を妨げたり、 NHKのテレビ番組の視聴を強制するものではないから、「民放のテレビ番組を視聴することにより情報を取得する自由(知る自由)を侵害するものとはいえない」 とした。 また、放送受信規約9条はテレビ受信機を廃止しない限り受信契約の解約はできないが、 同条は民放番組の視聴を妨げたりNHKの番組視聴を強制するものではないから、 憲法21条1項及び自由権規約19条1項により保障される知る自由を侵害するものではない(判決書16頁)。

3 幸福追求権(憲法13条後段)について
  放送法32条は民放のテレビ番組の視聴を妨げたり、同視聴を強制するものではないから、憲法13条が保障する自己決定権を侵害するものではない。 また放送受信規約9条は受信機を廃止しない限り放送受信契約の解約を禁止するというものにすぎず、民放のテレビ番組の視聴を妨げ、 または同テレビ番組の視聴を強制するものでもないから、 憲法13条後段に保障される 「番組の視聴または視聴しないことにかかわる意思決定権」 (自己決定権)を侵害するものとは言えない(判決書17頁)。

  以上が被告らの憲法上の主張に対する判決の応答論理である。

  「判決の検討」

  本判決は様々な観点から憲法的、法的検討がなされなければならないと考えるが、さしあたり筆者は、次の角度からの検討が必要と考える。

  第1には、被告らが訴訟の初期の頃から強く主張してきた、戦後放送法制の持つ民主主義的な意味の再確認とその基本的あり方からする検討である。 すなわち前述したように、戦後の公共放送は戦前の民主主義の蹂躙と、戦略戦争による多大な犠牲と、 それに何らの抵抗もできないばかりかそれを鼓吹してきたメディアのあり方に対する深刻な反省の上に成立した。 それは日本国憲法の表現の自由版といってよい歴史的位置づけをさるべきものであった。

  被告ら及び土屋意見書が主張し、理論構成してきた受信料強制徴求が憲法に違反するとの理論は、 このような戦後放送法制の歴史的位置づけの把握に立ってこそ正しい結論が導き出されるべきものである。 判決は被告らのこの主張につき、何らの応答をしていないけれども、このことは控訴審においてぜひとも成し遂げられなければならない。

  第2に、表現の自由、報道の自由は何のために存在するかという根本的、哲学的問いに裁判所はぜひとも答えるべきである。 表現の自由を保障する民主主義社会においては、市民─個人─ひとり一人の人間に─至高の価値がおかれるところに立憲主義に立つ全ての人権論の出発点がある。
  市民の公共圏を実現するために貢献すべき使命をNHKが果たしていないことがこれほど明らかになったのである。 そのような公共的使命を果たしていないと、市民─個人─ 一人ひとりの人間─が考えた結論はそれ自体として尊重するべきである。 前述のように政治介入やNHK内部の受信料の不正流用について、市民の批判と不満が高まり、そのことにより巨大な受信料不払い人口が生まれた。 それに対する経営の突破口として、この受信料請求訴訟が引き起こされたのである。 この大きな物語が裁判の中で語られ、その存否、当否を巡って大論争が行われたのである。 この公的論争に対して裁判所は少なくともなんらかの見解を述べるべきであろう。そのことに一言も言及することのない裁判所に対して深い疑問を呈さざるを得ない。

  第3に、被告らの憲法上の主張に対する各論的な理論構成の問題がある。判決の論旨は、NHKは受信料を請求しただけであって、 何らNHKの放送内容の押しつけや民間放送の受信の妨害をしているわけではない、というところに尽きるであろう。 しかし、被告らが縷々主張してきたように、契約締結強制や受信料支払強制、契約離脱禁止強制などの仕組みは、 放送や組織のあり方について、いかに強い批判と不満を抱き、不利益を覚悟の上でNHKとの法的関係から離脱を意思表示しても、 市民はその離脱の自由を与えられていない、そこに問題の核心がある。 それは前掲希望ヶ丘自治会事件最高裁決定の判旨にも違反していることが明かであると考えるものである。

  以上の検討からして、第一審判決の結論と理論と、控訴審並びに最高裁において、このまま維持されることがあってはならないと考える。

  第七 今後に残された課題

  <パブリックフォーラム論の充実>
  実は受信料の法的性格については、@ 受信の対価とする対価説(土屋教授など)と、A 市民の公的負担とする公的負担説(NHK、塩野宏教授)とが対立しているが、 いずれの立場に立っても、公共放送が負う役割はパブリックフォーラムであることは否定できないように思われる。 被告本人尋問の席で被告の方々が見せた、日々働く庶民としての横顔の表情は、力に満ちた堂々たるものであった。

  NHK内部の不祥事や、政治介入という事実を受けて受信料支払いを拒否した市民は、法的な理屈をこえて、その鋭い直感で、 NHKがその公的役割を果たしていないことを見抜いたのである。

  政権交代後、日本版FCC(独立行政委員会)が提唱され、長年の懸案がにわかに現実味を帯びてきた。 この今こそ公共放送のあり方、受信料の法的性格づけについての議論が深められ、法的な参加の権利を伴った制度改革が着手されるべきであろう。 NHKの会長には、初代高野岩三郎氏のようなジャーナリズム、民主主義論の見識をもった人物が選出されるべきだし、 それを可能にする制度的担保も検討されるべきである。

  被告二名の方々は共に控訴した。議論は東京高裁に移る。訴訟上の論戦が前述のような政治の舞台での議論を背景としたとき、 受信料の強制徴求というNHKのとった手段は、言論の府としてあまりにふさわしくない行為であることが明らかになるのであり、 被告側の憲法上の主張もいっそう輝きを帯びると考える。
  この訴訟がそのような議論の出発となれば、あえて被告となった人々の勇気ある行動や、裁判所をはじめとする法曹関係者のエネルギーも決して徒労ではなく、 この国の民主主義の礎石を組み上げる仕事だった、ということになるだろう。