トピックス   梓澤和幸

弁護士ドットコム インタビュー
2013.3.28

<東京千代田法律事務所 梓澤和幸先生 >

梓澤和幸先生にインタビューをさせて頂きました。

Q1.なぜ、弁護士になろうと思われたのですか?
A1.私は1962年に一橋大学法学部に入学しました。当時は60年の安保闘争の直後で一時学生運動は後退しましたが、 日韓条約を締結すること対する反対運動や大学管理法という大学の自治を脅かされることに対する学生運動が高揚した時期でした。 入学したとたんに一年先輩の学生がクラスにやってきて自治会の評議員をきめ、クラス討論を呼びかけたりしました。 私もその影響を受けました。一橋というと就職が良くて、その頃は一人の学生に40、50社の企業のパンフレットがくることが普通でしたが、 学生運動に参加していた私のところには一通しか来ませんでした。思想差別がないので、司法試験を受ける道をえらびました。 もともと中学生のときに松川事件という大冤罪事件の演劇をみたこと、八海事件の映画をみたことが記憶に残っており、 大学に入学したころは司法試験をうけようと思っていたのです。学生運動につっこんだころからその志望はどこかに吹っ飛んでしまっていたのですが。
  当時の学生は一般によく読書をしていました。学生運動に関心をもったり、実際に参加する人は普通の学生の勉強の量をさらにこえて、 万巻の書を読んでいました。
  経済学、哲学、世界の歴史、文学など大変な量の読書家がいました。 学生同士の議論のレベルも高いもので、 大学を三つか四つ卒業したぐらいの力を身に付けたと思っています。私は勉強をはじめてから比較的短期間に司法試験に合格しました。
  その頃は私と同じように学生運動をやっていて、早く合格した人が少なからずいました。思考する力は社会的な実践の中でさらに鍛えられます。 今思い返してみても考える力は運動の実践の中で基礎力ができ、法的思考力もその基礎の上に築かれたと思います。
  修習生のころに青年法律家協会に入っていると裁判官になれないという裁判官任官拒否問題が起こりました。 司法研修所卒業式の時に同期(司法研修所23期)から7名の人が裁判官への採用を拒否されたのです。
  これに対して修習生の抗議の声が高まり、卒業式の日に、採用拒否の理由を聞きたいということになりました。
  阪口徳雄くんという修習生がクラス連絡委員会の代表として採用拒否の理由を聞きたいと穏やかな方法で卒業式の席上質問に立ちました。
  ところが最高裁判所は司法研修所の所長の講話を遮り、マイクを奪って演説を行った、との理由で阪口君を罷免したのです。 二年間の修習の最後にそのようなことになったので、その後三年間、同期の阪口くんの首が繋がるまで生きた心地がしませんでした。 阪口くんが罷免されているのに自分だけ先に仕事をするという気がしませんでした。 この経験はその後の弁護士になってからの人生に影響を与えました。こうした経験から私は弁護士が争議団の人や公害の運動に携わっている人に対して、 上からさとすようにものを言うことに反発を感じました。阪口くんを救うということは私たちも争議団になったということです。 争議団や公害運動の当事者たちはその日その日が大変なのです。 そこに弁護士がお説教のように何かものを言っても当事者の人たちの腹には入ってゆきません。 一緒に助け合っていこうと言ってくれる人はいなかったわけではありませんが、少なかったのです。 そのことに反発を覚え、それならば自分はそうではなく、公害の当事者、冤罪の当事者と一緒に生きるという法律家の生き方、 言葉があるはずだと思って、文章も法廷での弁論も集会や街頭での演説でもそうしたことを大切にしています。

Q2.今までどのようなお仕事をされてきましたか?
    また、現在どのようなお仕事をされていますか?

A2.環境や住民運動、報道による人権侵害、治安立法に関する問題、憲法の問題、 3.11以降の原発の脅威にさらされている子どもたちを守る運動が柱になっています。
  住民運動については、新人の時に東京都北区王子の東京北法律事務所で10年間修行をしました。東京都北区は住民運動が盛んな地域でした。 マンションの建設による日照権の侵害に対する運動や新幹線による公害など住民と立ち上がることが多々ありました。 そうした経験から30年ぐらい前に神田に今の事務所を作った時も住民運動をやろうと思い、取り組んでおります。 高田馬場に出かけて行ったり、神田では神田神保町の住民運動に関わったりしました。 現在、築地市場移転反対の運動と訴訟、神田駅重層化反対訴訟と住民運動に参加しています。
  報道による人権侵害に関しては、 一番最初は青年法律家協会で実名報道によってどのような被疑者被告人とその家族が被害に遭われたかのアンケート調査を行ったことが取り組むきっかけとなりました。 そのアンケートの記事が新聞に載り、それについての反響がありました。反響の中からある人が事務所を訪ねてきました。 その方は過去の違法行為について報道されようとしていました。「あのことが世に出るなら私には死しか残されていない」 と思いつめていました。 私はすぐに記事の差し止めの申請をし、記事の掲載は一週間延びることになりました。 その際、私の隣からぼたっと言う音がしてその方の涙が落ちる音を聞きました。「ありがとうございました」 と深く頭を下げる姿を見て、 報道被害からの救済で人の命を救うこともあるのだと思いました。その後も報道の問題では差し止めはいくつもやりました。 人生の一番大変な時というものは、誰にでも一度は必ずあります。大変な思いをしている人がきたときに、答えを出さないでもいいと私は思います。 ある精神科医に依頼者の鑑定を頼みに行った時に、鑑定が終わり、先生が玄関で 「大変でしたね」 と深い響きの声で言われました。
  そのときの病院の玄関の光景や精神科医の姿、声の印象がいますぐそこに戻ってくるように思い出されます。 私は弁護士や医師という職業にとって困難の内にある人の苦しみや切実な悩みに共感できるかどうかということは大切な分岐点だと考えています。

  原発の問題で考えたことをお話させてください。
  2011年の3月11日に東日本大震災が起きて、福島第一原発の過酷事故の問題が一週間以上昼夜を問わずテレビで取り上げられました。 あの時に福島から避難する人たちを見て、私は居ても立ってもいられなくなって今すぐに福島に行かなくてはと思いました。 すぐに知り合いの弁護士に電話しましたが、知り合いの事務所の電話には誰も出られませんでした。 ほかにつてをたどりましたが3月中に福島に行くことが出来ませんでした。その後私が福島に入れたのは5月3日でした。 いわきの広田弁護士のご案内でJヴィレッジから広野、薄磯、小浜、北茨城と海岸沿いに津波の被害の状況や人々の状況を見ることができました。
  津波にやられて放射能に汚染されている光景を見た私は衝撃を受けました。 それから郡山に行き、富岡町と川俣町から1800人が避難されている郡山のビッグパレットという施設の避難所に行きました。 その避難所にはプロレスの慰問団がきていた光景を今でも思い出します。 身長があまり大きくないレスラーが技の掛け合いで背中を真っ赤にした姿で涙ながらに 「私はまだ修行中の身ですが、 必ず大きくなってみなさんの前に帰ってきます!」 と話され、会場をいっぱいに埋めた観衆から拍手をあびていたことが印象に残っています。 あのときいた何百人もの観衆は一人も逃れてきた家に帰ることができていないのです。
  その後、OurPlanet-TV(白石草代表)の取材に同行して福島市の渡利という地域に行く機会がありました。 現地は高い放射線量でした。ある地点では子どもたちが建物の二階に集まり、皆マスクしていました。一階は線量が高いので、そうするしかないのです。 そこで暮らす人々から休日には50キロ走り子どもを外に遊ばせに行くというお話も聞きました。鼻血が出る症状が現れている子どももいます。 医師は鼻血と原発事故とは関係ないという人も少なくありません。 しかし事故以前には鼻血を出さなかった子どもから鼻血が出ていることは父母にとっては事実であり、 原因として放射線の影響がないと断言できる証明もなされていないのです。
  こうしたことを見聞きした経験が現在の子どもたちを守る活動をするきっかけとなりました。 国会ではすべての政党が賛成して原発事故子ども・被災者支援法が可決されました。原発事故については国もまた原発政策を進めてきた責任があります。 低線量被曝が人間の健康に及ぼす影響には定説がありませんが、 そのことが被曝を心配しなければならない地域の住民に深刻な影響を与えていることをこの法律は重視しています。 そのような環境の下で住民がいかなる選択を行うか、それを住民の自己決定権に基づく人権だと認めているのです。 とくに政府の指示にもとづく避難でなく自分の判断で避難することもまた 「避難する権利」 に基づく行動として認めたことの意義は小さくありません。 自主的な判断にもとづく避難をした人々への健診と医療、住宅の保障、就業支援をうけられることが法律によって定められました。 法の理念にもとづく施策が実際に行われるための基本方針が定められること、予算措置が取られることが急がれなければなりません。 そのため、院内集会、全国各地での勉強会への講師派遣などの活動を行っています。

Q3.現在梓澤先生が注目されていることがありましたらお教えください。
A3.改憲問題に注目しています。2012年4月に自民党の改憲草案が発表されました。 新聞やテレビなどのメディアでは9条や96条の問題しか触れていません。しかし、私は9条や96条に加えて改憲草案21条2項に問題があり、 多くの人に知っていただきたいと考えています。改憲草案の21条2項では 「前項(表現の自由保障)にかかわらず、 公益公共の秩序を害する目的の表現の自由並びに結社の自由は認められない」 としています。この文言には右から左まで全ての人が反対だと思います。 国がだめだと行ったらだめになってしまうのです。表現の自由、報道の自由を扼殺する条文であり、多くの人に知ってもらう必要があります。
  また、98条、99条には緊急事態宣言の規定があります。
  戦争、災害、などの緊急事態において総理大臣が緊急事態の宣言をしたら国民は国その他の公の団体の指示に従わなければならないとしています。 原発事故がその典型でしょう。原発事故の悲惨さを伝える報道の自由が制約されることとなります。
  表現の自由、報道の自由は真実を知るために必要なことです。このような改憲案、特に21条2項については記者や弁護士の中でも、 十分に認識し、なんらかの啓蒙活動を行っている人はまだ多くありません。 一般の市民は知りようもないのです。改憲問題は参院選の争点にもなります。このまま7月の参院選挙に突入してはなりません。 私のホームページ上(http://www.azusawa.jp/topics/topics-20130224.html)で詳しい解説をしています。 是非ご覧になってください。もう一つ付け加えたいことがあります。 それはこの問題でキャリア10年未満の若い弁護士が立ち上がり 「明日の自由を守る若手弁護士の会」 を結成しすでに100人の人たちが参加しています。 大いなる希望を感じています。
  4月24日 6時から国分寺労政会館でこの人たちと私が共演して改憲と自由に関する集会をやります。 参加自由無料です。若い法律家の姿を実際に見ていただきたいと思います。

Q4.弁護士としてお仕事をする上で意識していることは、何ですか。(信条・ポリシーなど)
A4.東京地裁で訴訟実務をやるとわかるのですが、自分の法律的知識、技能、弁論する力、つまり勝つ力が必要だとつくづく感じます。 これは総合的な力です。弁護士は法廷という場での知的格闘技を繰り広げます。 その際、勝ち負けを決めるのは、第三者の審判、つまり裁判官です。審判の共感を呼ぶような言葉で勝つために自分を鍛えることが大切です。
 また、Q1でお話ししたように当事者と一緒に生きるという姿勢は欠かせません。

Q5.ページを見ている方々へのメッセージ、法曹界を目指している方に向けてのアドバイス等をお願いします。
A5.「ディア・ブラザー」 という映画があります。日本では劇場公開されていません。 レンタルDVDショップに行くと必ずありますので是非ご覧になってください。物語はアメリカの冤罪事件に関する実話です。 兄の冤罪を妹が救う物語です。妹は高校を出ていないので、高校卒業資格を取り、大学、さらにロースクールを出て司法試験を受け弁護士になります。 その間 18年かけて兄を冤罪から救うのです。最後に刑務所の中で苦労した兄が妹に語りかけるシーンがあります。 兄は 「君が僕のために外で走っていてくれたから僕は刑務所の中で生きていくことが出来た」 と言います。 「君が外を走っていてくれて」 の君になるのが法律家です。誰のために、何のためにどういう人生を歩みたいか、 そういうモチベーションを育てることが大事です。弁護士になるには受験の技術なども必要だと思いますが、 その前にこうした意識を奮い立たせることを大切にしてほしいと思います。
(弁護士ドットコム 2013年03月28日より)