トピックス   梓澤和幸

朝日新聞問題を考える

  朝日新聞が揺れている。
  三つの問題がおこった。
  1、従軍慰安婦報道をめぐって
  2、池上彰氏のコラム掲載の一時差し止め
  3、東京電力福島第一原発所長吉田昌郎氏の政府事故調による 「吉田調書」 をめぐる記事の取り消し
の三点である。
  事実の経過を簡潔に紹介しつつ、私見を率直に明らかにしたい。

1、従軍慰安婦報道をめぐって
  二〇一四年八月五日朝日新聞は朝刊一面で 吉田清治氏(故人)の証言を根拠とする朝鮮半島済州島における朝鮮人女性を強制連行の記事一六本の記事を取り消した (八月五日付朝刊記事掲載の杉浦信之・編集担当の論文および八月六日付慰安婦問題を考える特集記事のうち、読者のみなさまへとする囲み記事)。
  吉田清治氏(故人)は講演および著書の中で、「済州島で二〇〇人の若い朝鮮人女性を狩り出した」 とした。
朝日新聞は一九八二年九月二日以降一六本の記事で、この証言をもとに記事を記載した。吉田清治証言の信憑性には、 九〇年代から他メディアや有識者から疑問が投げかけられ、朝日新聞も検証し、疑問は持ったものの一六本の記事の訂正、取消はしなかった。
  二〇一二年一一月の安倍自民党総裁の批判、週刊誌などの批判が拡がる中で、 今年に入って済州島で九〇人もの人々に朝日取材陣が会って取材したが、吉田清治証言の裏付けはとれず、むしろ矛盾する事実も出た。 この経過を受けて前述の取り消しとなった。この時点で謝罪は行われなかった。

2、池上彰氏のコラム記事差し止め
  ジャーナリスト池上彰氏は 「新聞ななめ読み」 というタイトルのコラムを朝日新聞に連載していた。 二〇一四年八月二九日掲載予定のコラムの原稿で池上氏は、前期従軍慰安婦の報道記事取消の問題を取り上げ、 @ 吉田証言に基づく記事の取消が遅すぎたこと A 謝罪をすべきだったことを指摘しようとした。しかし、これが一時掲載見合わせとなった。 コラムは掲載予定の日より一週間後に、池上氏へのお詫びとともに掲載された。 報道の自由、言論の自由を標榜する報道機関が、言論の事前抑制という自由への極端な干渉を行ったのである。

  いかなる動機で、誰の判断でやったことなのか、木村伊量社長は九月一一日の記者会見で、掲載見合わせを知っていた、と述べたが、 誰の判断だったのか、明確にしなかった。
  前後の事情から推認すると、謝罪すべきだとの論調を封じ込めようとしたとの動機が推認されるが、朝日新聞からの公式な釈明はまだ見られない。

3、福島第一原発吉田所長の調書をめぐる報道について──誤報ではない
  朝日新聞木村伊量社長は九月一一日の記者会見で、同紙が五月二〇日に行った 「所長命令に違反 原発撤退」 とのタイトルの記事を取り消すと述べた。
  この記事は、二〇一一年三月一五日、東電福島第一原発の所員の九割が吉田昌郎所長(故人)の第一原発の所内で線量の低いところに退避して待機せよ、 との命令に違反して、第一原発から一〇キロメートルのところにある第二原発に撤退していた、という内容であった。
  木村伊量朝日新聞社長の記事取消理由は、命令はあったが、所員にはそれが伝わっていなかったから、命令違反で撤退ということは事実に相違する、 というものであった。
  筆者は、テレビで社長会見を見ていて、「おかしい」 「評価や表現の違いで記事を取り消すとは何事か」 とまず思った。
  五月二〇日の記事の評価のため、朝日新聞の記事ほか、限られた時間で入手できる資料により、知り得た事実をここにまとめてみる。

  焦点となる三月一四日夕方から一五日午前にかけて、福島第一原発はどんな状況だったか。三月一一日の地震と津波の襲来によって、 即日福島第一原発の全交流電源は喪失した。ここが決定的である。原発を冷やし続ける水を送るパワーが断絶するからである。
  一号機は三月一二日午後三時四五分、三号機は三月一四日午前一一時一分に水素爆発を起こした。
  一四日夕方はどんな状況だったか。
  二号機が危機を迎えていた。原子炉内部の圧力が上がりすぎて水が入らない状態になっていた。 一四日午後七時には二号機の燃料棒が全部露出して圧力容器が空だきになった事態であった。 東電社長は、第一原発から第二原発への撤退の承認を経産大臣に求めていた(木村英昭署 『官邸の100時間』 岩波書店P.213)。
  吉田所長は格納容器の破壊がおこり、チェルノブイリ級以上のチャイナシンドローム状態がおこると自覚し、 細野豪志首相補佐官にもその旨電話している(九月一二日付東京新聞5面、五月二〇日付朝日新聞2ページ)。 この最悪の危機の中で、東電本社も吉田所長も(九月一二日付東京新聞5面)最低限の要員を残して、第二原発への撤退を考えていた(前述 『官邸の100時間』)。
  大切なことは、東電本社が第一原発撤退を考えており、九割の所員の移動により、それが一時実現してしまったことである。

  一五日午前三時には海江田、枝野、福山副官房長官、補佐官の細野、寺田、管理官の伊藤らを介して首相にその意向が伝えられた (前述 『官邸の100時間』 P.135)。
  しかし、菅首相は撤退に反対しており、その態度は一五日午前五時三五分に東電本社で菅首相から東電清水社長らに伝えられている (前述 『官邸の100時間』 P.245)。

  このような流れを受けて、一五日午前六時過ぎから次のことがおこった。
  吉田調書、東電内部資料では、三月一五日午前六時過ぎ、二号機方向から衝撃音がし、原子炉圧力抑制室の圧力がゼロになったとの報告が届いた。 これが事実の通りだとすると、格納容器の破壊を意味する。所員七二〇人が大量被曝するかも知れないという危機感がおこった。
  前夜来の流れからすれば、第二原発への避難、撤退の動きを吉田所長が命令することはあり得た。
  中央制御室の線量は上がらず、吉田所長は格納容器は破損していないと判断した。 吉田所長は一四日午前六時四二分、第一原発構内の線量の低い場所での待機をテレビ会議を通じて命令した。
  しかし、七〇人を残して一五日午前七時頃から九割の六五〇人の第一原発所員は第二原発に移動した。
  この大量撤退を吉田所長も知らなかった。

  この六五〇人の移動について、海渡雄一弁護士は東電本部の指示ではないかと推測する(「週刊金曜日」 10月10日号 P.27)が、筆者も同意見である。 前記の通り一四日夕方から再三にわたり、東電清水社長から菅首相を含む官邸スタッフに、 第一原発に最低限必要な人員を残した撤退の報告と承認要請が表明され、断られていた事実があるからである。

  朝日新聞の吉田調書報道は、二〇一一年三月一一日以降の、とりわけ第一号機、三号機が爆発し、二号機が空だきになり、吉田所長が何度も死を覚悟し、 東日本壊滅を覚悟したという原発爆発の、血も凍る危機と、それを放置して撤退しようという東電幹部の無責任さ、 所長命令も無視されてしまうという指揮系統の混乱を明らかにした。この日午前九時第一原発正門では一万一九三〇マイクロシーベルトが記録された。 同じ日午後八時四〇分海岸部から山間部に大量の人が避難した浪江町昼曽根トンネルでは三三〇マイクロシーベルト、 午後六時四〇分飯舘村では四四・七マイクロシーベルトが記録された。

  すなわち、重大な放射能漏れがあり、人々を汚染にさらすその時期に、九割の所員が第一原発を去って手薄にしていたのである。 残れという命令があったのに、である。命令はあったが所員には伝わっていたとの裏がとれなかったから取り消しという朝日新聞の決定は、 以上の事実を闇に葬る暴挙である。

4、まとめ
  朝日新聞問題は、全体状況の中でいかなる意味をもつか。
  たしかに、強制力による狩り出しを自ら体験したとする吉田清治証言の信憑性が低く、朝日新聞の、同証言にもとづく記事取消は正しいし、 遅きに失したともいえる。
  しかし、国連特別報告者クマラスワミ報告や国連規約人権委員会が指摘した、 性奴隷制が日本軍の管理の下におかれていたとの歴史的事実を否定する証拠が上げられているわけではない。 朝日新聞叩きのメディア、政治家たちは、吉田証言にもとづく記事取消をチャンスとして従軍慰安婦という加害がなかったかの如き大キャンペーンを行っている。 これは日中戦争、第二次世界大戦中の日本の加害責任を否定する動きの一部を構成している。

  加えて朝日新聞トップの危機対応の過ちがある。ベトナム戦争のウソを暴くペンタゴン・ペーパーズのスクープを想起せよ。 ニューヨーク・タイムズ副社長ジェームズ・レストンは、これは政府との闘いだ。経営危機を覚悟しよう。 困難になれば一階を売って輪転機を上にあげ、各階を売らざるを得なくなれば一四階に上がることになっても闘い続けるのだ、 との旨を社内の会議で述べた(杉山隆男著 『メディアの興亡』 文藝春秋 P.555)。
  戦争前夜にあるメディアが、戦争に向かう権力の前に立ちはだかろうとすれば、これだけの覚悟が必要だ。
  しかし、吉田所長調書記事取消を前面にすえた木村伊量社長の会見からは、ニューヨーク・タイムズレストン副社長の気迫ではなく、 妥協と路線転換の影を私は感じ取った。

  朝日の持ってきた影響力は小さくない。
  その力を殺ぐために今巻き起こる朝日バッシングと元記者への攻撃の中から、民主主義の底知れぬ危機を感ずる時代感覚に私は同意する。
「青年法律家」 No.525 2014年11月25日