メディア・読書日記    梓澤和幸


メディア・読書日記 小説を読む 2008−2009年 目次

書評 『司法官僚 裁判所の権力者たち』 [著者] 新藤 宗幸/岩波新書 2009.10.6
狸まいり 2009.2.26
なぜ、うれしかったか 2009.1.28
吉村 昭 「彰義隊」 (新潮文庫)  2009.1.26
高橋シズヱ 『ここにいること』 (岩波書店)  2008.4.24
在日コリアン弁護士協会 『裁判の中の在日コリアン』 (現代人文社)  2008.3.11
佐藤 優 『私のマルクス』 (文藝春秋)  2008.2.21
2008.1.27 鹿児島大学にて講演、シンポジウム参加 2008.2.4

2007年 目次



メディア・読書日記 2009.10.6

   書評 『司法官僚 裁判所の権力者たち』
             [著者] 新藤 宗幸/岩波新書


梓澤和幸

  最高裁の建物の中には裁判を担当せずに司法行政に専念する裁判官が二十三名、その予備軍である事務総局付判事補が二十名余いる。 現場の裁判官も、どこか上(人事)を気にしながら仕事をしている。その空気をつくっている司法官僚の真実に迫った。 実証的な研究を背景とした知的好奇心を誘う文体である。

  最高裁長官、事務総長、人事局長などの人々は、(法律の建前とは別に) 結局申し送りという官僚システムで選ばれていく。 現場と事務総局を往来するこのコースに乗るか否かは、司法試験合格後一年半の司法修習の間にきまる。頭がよく、素直で、上司に従順な人が選ばれる傾向だという。

  司法官僚は全国の判決や訴訟指揮の情報を集めている。それをもとに行使される人事権は全国三千五百名の裁判官たちに絶大な影響力をもつ。 十年ごとの再任の有無、昇級、転勤、を司法官僚が決める。事務総局が招集する 「会同」 と呼ばれる研究会も下級審の裁判内容を遠隔操作する結果を生む。 労働事件や水害事件の事例が指摘される。

  次の指摘は本書の白眉である。「司法官僚として訓練された調査官が最高裁判決に大きな影響力をもつとされ、 しかも、最高裁判事のうちの職業裁判官も司法官僚トップ経験者であるとき (最高裁の) 判決が秩序維持に力点をおくものとなるのも当然といえよう。」(本書百六頁)

  裁判とは社会で周縁においやられた人々の、尊厳回復の最後の機会である。必死の訴えをする人々に遭遇したとき、 裁判官は一人ひとりの全人格的判断をもって救済にあたるべきだ。 しかし、人々の目にふれぬところで、裁判官の内面までゆがめ、その存在理由をあやうくしているシステムがあるのだとすれば大問題である。

  政権交代とは闇を打ち破る時代のことであろう。本書提言にかかる裁判所情報公開法などによって司法の実態にも光が当てられ、真の改革が着手されるべきだ。
2009年9月9日 東京新聞掲載




メディア・読書日記 2009.2.26

   狸まいり


  2月21日夜、NHKラジオで40年前のラジオドラマの復元放送をやっていた。
  大矢市治郎という新派の大俳優と、まだ37歳の若手だった加藤武 (剛ではない武である)、それにお囃子は 「たまご会」 という組み合わせだった。

  農家か、山に入って柴刈りをする山村に一人住む老人を大矢市治郎が演ずる。
  外はしんしんと雪が降り、雪のない日は戸を寒風が揺さぶる。大矢市治郎の寒さを表現するせりふには独特の間がある。 それは妻も去り、そして何年か前には子どもまで先に逝ってしまった孤独の表現にむけられている。

  扉をたたく音がした。
  狸だった。だが、狸と名のる来訪者に老人は聞く。
  「お前、どこかで見た顔だな。うそじゃねえか。狸じゃねえな。しのこの言うとたぬき汁にして食っちゃうぞ」

  狸は本当にたぬきのようだ。寒さにちぢみあがって、せめて一夜の暖をとりたいと言って入ってきたのだ。 柴の木が燃えて、黒光りした梁と、天井に煙が上がってゆく心地よいかおりと音。それにいろりの暖かさ。 さらには、伝わってくる山深い里の沈けさがいっときのドラマの主人公になる。

  たぬきはやがていびきをたてて眠ってしまう。
  ここから先が何とも悲しい問答になるのだ。

  「おお、お前は息子に似ている。いや息子だ。息子だったらこの呼びかけに答えてくれ。」
  祈るような声で老人は叫ぶように言う。
  「息子、起きろ、起きろ」

  帰って来るはずのない息子に、父親は呼びかける。だが、狸はいびきをかきつづけて起きなかった。

  やがて起き上がった狸は、どこか狸とは違った人間の声のようになって……。
  「お父っつあん。 おとっつあんがいまどうしても欲しいものは何ですか。」 と聞くのである。
  おやじは小判一枚が欲しい、と言う。妻と息子の待つ彼岸に渡る葬いの費用として。

  それを聞いたたぬきは再会を約して去るが、もう来なくなった。老人をふたたび孤独と寒さが襲う。そのうち冬は二度、三度と過ぎた。だが、狸は来なかった。
  「あいつももう来ねえのかなあ。寿命かなあ」
  さびしい嘆息だった。

  ある冬の木枯らしの音聞こえる夜、扉をたたく音があった。
  とんとん。とんとん。

  たぬきは佐渡に渡って、他国で苦労し、ようやく佐渡の金山で身を粉にして働いた。
  「おとっつあん。これ」 と言って差し出したのは、苦労のあげくの一枚の小判であった。 老人はおしいただくように小判をもらった。
  深くため息をするように礼をいいながら。

  このドラマのクライマックスは、最後のシーンだろう。
  また来るから、とは言うのだが、狸も老人もいつ命果てるとも知れない。

  大矢市治郎という新派役者の、ここが一番の演じどころだ。
  他者を思う気持ち。痛みと、哀切とを抱き、別れをいとおしく、たがいを大切にする気持ち。
  音のドラマなのに、いや 音だけの世界だからこそ目の前に想像の画面が広がるのだ。

  しわがれた声は、そう大きくはなく、だが、遠くに去っていく狸、いや息子を思いやって、そこに届くように老いた声が反響するのだ。

  「おーい。そんなに早く走ると、つまずくぞうーー。」 「いそぐなあぁ」
  「骨を折るぞーう。」

  お囃子のつづみが鳴る。
  たぬきの腹づつみを模した音だ。
  ポーン、ポ、ポポーン、ボコ、とどこかユーモラスに、だが、哀調を帯びてそれは鳴る。
  「そんなに打ったら、腹がこわれるぞうーー。」

  悲しく、いとしく、あたたかい場面で、これを書いていてドラマの場面を思い出すと激しい気持がこみ上げてくる。
  逝った人たち、父や母や義父や義母の微笑みが浮かんでは消え、浮かんでは消えた。

  絶対的に到来する、愛する人々との別れという不条理をかかえて人は生きる。そのことの重さを知る者こそ人と人のつながりの切実さ、貴さを知るのだ。 なんだかとても大切なときをもつことができる夜だった。




メディア・読書日記 2009.1.28

   なぜ、うれしかったか


  朝青龍が勝った。(初場所 1月25日優勝決定戦)
  子どもがはにかんだような勝利の瞬間の笑顔に、勝者のおごりはなかった。
  「朝青龍は帰ってきました」という声にも透明なひびきがあった。

  ここで取り上げたいのは、手の平を返したようなメディアの態度である。
  床山の美談、横綱総見で白鵬に6対1の惨敗を喫したあとの日馬富士のいる部屋への出稽古への執念が語られる。 だが、引退合唱の後のメデイアの身かわりは何なのか。
  サッカーの中田選手のマスコミ嫌いは有名だが、朝青龍と仲がよいのは案外こういうメディアの豹変ぶりを体験しているせいかもしれない。

  勝者は称えよ、だがへつらうな。
  引退騒ぎの大合唱をやっていた当時の分析力のなさを恥ずる一言があるべきではないか。 こう簡単に勝ち馬に乗られると、人々はメディアからその心を離してしまうであろう。

  スポーツの報道だけではない。旧聞になるが、安倍総裁実現のときのマスメディアがそうだった。たったの一言もNHK番組改変問題への質問はなかった。 政治家に問われる民主主義的資質を問う質問があるべきだったのにそれがなかった。
  今回、朝日新聞1月26日朝刊の一面に、朝青龍への麻生総理の表彰状読み上げの際、「総理大臣杯」 の杯の読み飛ばしがあったという一行があったが、 この政治家が頂点にあるときにこの一行は一面に載るだろうか。

  『ジャーナリズムの思想』 (原 寿雄著 岩波書店 1997年) には、「自分たちは言いたいことが言えないなんてことはない」 と感ずるとき、 それは、メディアがいつの間にか多数派の側にいるから──ではないのか」という指摘があった。
  勝ち馬に乗る、とは多数派の所在を嗅ぎわけ、その勢いに乗る──安全な場を確保する、そいうことではないのか。
  メデイアには、公権力をもつものへの、それも絶頂にあるものへの意地の悪さ──言い換えれば、「肉体化した懐疑」があるべきではないのか。
  記者の姿からそれが発散されていなくては駄目だと思う。

  ところでNHKは君が代を歌う瞬間の横綱の顔を大写しにしていたが、うたうかどうかを見させていたのだろうか。このことも気になった。

  この間の相撲報道をみていると、朝青龍に今場所は勝ち続けてほしい、と思って、声にはしなかったが心の中では真剣に応援していた理由が今になってわかった気がする。



メディア・読書日記 2009.1.26

   吉村 昭 「彰義隊」 (新潮文庫)


  吉村 昭 「彰義隊」(新潮文庫) を読んだ。薩・長を主力として構成した朝廷軍に刃向かった彰義隊と奥羽列藩同盟の盟主に推戴された皇族輪王寺宮の一生を描いた。
  皇武合体の政略のため二人の皇族が西から東に動かされた。一人は14代将軍に嫁した皇女和宮であり、もう一人が21歳で寛永寺山主に迎えられたこの物語の主人公である。
 
  和宮には婚約者がいた。後に幕府追討軍の総裁となる有栖川織仁親王である。 婚約者と引き裂かれた恨みと、権力を握った側による正義をふりかざしたマイノリティーへの抑圧がこの物語の一つの軸であろう。 ほかの小説では、参謀西郷の圧力が有栖川親王の主人公への冷淡さの背景とされているが、 この作品は一個の人間の生涯にわたる憎悪をとらえていてむしろその描き方にリアリテイーを感ずる。
  人間の精神と権力闘争という問題である。

  もう一つの軸は、人生全体が人間の生きるテーマだ、ということであろう。
  寛永寺に立て籠もった彰義隊は一日の戦闘で敗北する。薩英、長英の戦争を経て、銃器を充実させた薩長軍が勝つ。 敗走の日々が詳しく書かれる。安眠の場はなく、農家の納屋、材木の上などで眠る夜が続く。
  船で榎本武揚の軍艦へ。東北地方に逃れ、奥羽列藩同盟の盟主としてかつがれるが、やがて会津、米沢をめぐる攻防は短期のうちに旧幕府軍の敗北に終り、 主人公は投降する。
  権力──暴力において劣る者は蹂躙される。

  吉村昭にはほかに 「長英逃亡」 「破獄」 などの逃亡ものがあるが、「彰義隊」 やこられの作品が共感を呼ぶのは、この社会で少数派として生きる人々が、 自分の運命に重ねて主人公の、日々の不幸を追体験するからではないか。 私はマイノリテイーという言葉を単に少数民族とか差別される人々とかとするのではなく、大小の権力の座から疎外された人々と定義して用いている。

  しかし主人公はそのまま人生を終えるわけではなかった。
  留学を経て軍人として登用された主人公には、最後の活躍の場が与えられるのだ。 それが、日清戦争や台湾への侵略のリーダーになった、というのは複雑な心境なしには読めないが、 しかし今、目前にある困難も本人と周辺の人々の最大限の努力を傾注して通り過ぎてゆくとき、 やがてその困難は、何か個々の瞬間を超えた大河のような流れ──人生という流れ──の中の一つの瞬間として、相対化されるのではないか。
  一人の人間がそのような運命を生ききってゆく物語が、綿密な史実調査に裏付けられて、語られる。 敗走記の背景として、2〜3行の文章で触れられる風景描写の中に、川や海、 そして、緑の木々にそそがれる陽光の輝きが眼前に浮かぶように描かれている場面が印象に残った。

  「彰義隊」 は敗者の目で、明治維新という権力交代 (革命ではなく) を描いた。
  西南戦争、会津戦役、秩父困民党、自由民権運動の鎮圧などとあわせ、幕末──明治元年の時代の戦争や人間の尊厳を求めた蜂起の帰趨を知ること、 とくに、その渦中にあった人物の人生を知ることは、今をどう生きるか、というテーマと密接につながっているように思う。



メディア・読書日記 2008.4.24

ここにいること
地下鉄サリン事件の遺族として

     高橋シズヱ著 (岩波書店・1785円)
     たかはし・しずえ
     1947年生まれ。「地下鉄サリン事件被害者の会」 代表世話人。


  希望へ…情熱あふれる歩み

  地下鉄サリン事件で、夫を奪われた高橋シズヱさんは、被害者の代表として行動と発言を重ね、救済と制度の改善に道を拓いてきた。 自ら表現している高橋さんの姿と内面は、躍動的とも言える情熱に満ちている。 胸の底に黒く固まった悲しみは、十三年の歳月を経ても衰えることはないのに、なぜそうなのか。この間いに本書は答えてくれるようである。 高橋さんは、被害を個人的な不幸として封印せずに、「そこから出ようとして」 歩んできた。 坂本堤弁護士一家殺害事件の捜査の不十分さがなければ、サリン事件の悲劇はなかった。 著者が死刑判決を受けた被告の母親に、裁判所の廊下でそっと手を重ねる行為に強い信念が反映しているようだ。

  悲しみの中から何かに向かって彼女は立ち上がったのだ。 一般の市民として生きる日々と、大事件に遭遇し、渦に巻き込まれた家族特有の傷が織りなされて描かれ、 読むものに 「ああ、この人たちには重い負担が背負わされているのだなぁ」 と感じさせる。時間がたっても、被害者と遺族は今日も日常を生きているのである。 憐憫や、時には差別の視線さえ向けられるという。犯罪被害者 (遺族) に無慈悲に差し出される取材のマイクを支えているのは、 隣人の痛苦に共感を及ぼすことのできない私たちの貧しさの故だろう。

  一方、山形放送の記者が著者を訪れ 「高橋さんには生きて行ってほしいから」 と言って花束を差し出す場面がある。 取材の思惑などを越えた青年ジャーナリストの善良な笑顔を思いうかべ、著者との間の温かい感情の行き来が胸を打つ。

  晴れ渡った休日の朝、被害者たちが発行した手記を求めて並ぶ六百人の人々の列や、 目立たず、しっかりと共に歩む中村裕二氏他の弁護士や精神科医師小西聖子氏の存在は、 絶望的な体験の中でも人は必ず希望に出会えるという証しを謳っているようである。

東京新聞 読書欄 2008年4月13日



メディア・読書日記 2008.3.11



 在日コリアン弁護士協会 著
 『裁判の中の在日コリアン』
 現代人文社 刊

  「日本を照らす鏡――在日コリアン」

  著者である協会は北でも南でもない在日コリアンである弁護士50名が集う団体である。本書はまず在日コリアン形成の歴史と法的地位の変遷を概観する。
  その上で裁判に登場した在日コリアンの人生をメンバーの弁護士たちがたどり、人間的共感をもって主人公たちの苦闘を記した。

  「中高生の戦後史理解のために」 というサブタイトルにふさわしい平易さと、包容力に満ちた文体がそろう。
  評者は、やさしさとはレベルを下げることではなく、書き手が問題の理解を一層進め、もう一段抽象と飛躍を高めることだという考えをもっているが、 いくつかの文章はそのことに成功している。

  たとえば、金嬉老 (キムヒロ)──寸又峡事件である。
  金嬉老は在日二世だった。幼くして父を失い、母とともに学校裏の庭にある掘立て小屋に住み、投石のいじめや侮辱に会いながら成長した。 その日の米にも困る生活だった。飛び抜けて感受性の強い彼にとって、思春期は、打ちのめされては立ち上がる日々の連続だったに違いない。 そのような人生の到達の末にできあがった反逆の精神と肉体の統合、それが37歳の金嬉老であった。 ヤクザ者と警察が投げつけた言葉は彼の心深くにマグマのように蓄積された悲しみと憤り、それは限りなく公の憤りに近いものであったのだが、 その爆薬に信管を与えるようなものであった。
  やくざ者へのライフル銃による殺伐とした暴力、警察への爆弾をもった突入の失敗のあと、 人質をとって旅館にたてこもって彼の人生の鏡に照らし出された日本社会の暗部を金嬉老はインタビュー画像で訴えた。 そこには現場にとびこんで言い分を聞いたジャーナリストの決死の行動があったことも記憶されてよい。

  彼のうったえは心ある人々に届いた。その力――知力は金嬉老の被差別の人生の中で鍛えられたのだろうという叙述に余人には記せない筆者の共感がこもる。
  それは事件の単純な説明の域を超えた響きをもつ詩(うた)といってもよいものだと思う。

  この団体の代表李宇海 (イウヘ) 弁護士が書いた。
  東京都の管理職を希望して拒否され、一審敗訴、高裁で劇的な逆転をとげたが、上告審で逆転敗訴した鄭香均 (チョンヒャンギュン) さんの物語も目を引く。

  上司に薦められたこともあって応募した管理職試験だったが、人事課から電話があった。
  「あなたは試験を受けられない。在日は (公務就任権がないという) 「当然の法理」 があるのを知らないのか」。
  普通に人生を歩もうとするのに、こんなに厚い壁があることがどれだけの人に知られているだろうか。
  東京都は高裁で完敗した。すぐに解決するはずの事件で主人公は7年も待たされた上弁論の通知が届いた。それは、逆転敗訴を示唆する出来事である。
  在日のまま初めて弁護士になる前人未踏の道を開いた金敬得 (キムキョンドク) 弁護士 (故人) の弁論は、人生をかけた壮絶なものだったという。

  ひょういつな表情に、いつも微笑みをたたえていた彼の弁論とはどんなものだったか。 暗く、圧迫感に満ちた石造りの大法廷にしみ入っていく在日第一号の法律家の声と、原告本人の胸中を察しながら読む。

  掲載された文章の一つひとつは、ある種の包容力をもち、浸透力をもっているように思われた。 在日コリアン弁護士が在日コリアンの人生の苦難と苦闘に言及するのだから、そこに響きあう 「うた」 があるのは当然なのだが、本書の説得力は何故生まれたのか。
  生活の実際の大変さといい、社会的なステータスといい、主人公と筆者たちには筆舌につくしがたい闘争の歴史があった。 この本に登場する主人公たちの人生の一つひとつは、自由と平等という近代の理念と矛盾する日本の社会の闇を照らし出し、 わずかだが、これこそ光だといえる根拠を示しているのではないか。
  本書は在日コリアンの、ではなく、日本列島という場に住む私たちのかすかな希望をうたっているのである。

  リベラル派を含めて、日本の知識人エリートの認識する宇宙には在日コリアンのことはすっぽり抜け落ちている。 本書でも正当に取り上げられているが、帝国日本が朝鮮半島住民に強制的に焼き鏝 (こて) のように記した日本国籍を、 サンフランシスコ条約締結で朝鮮半島への領有権を喪失したことを奇貨として、今度は日本に残留した朝鮮半島出身者から、 法律でもないいっぺんの法務省民事局長通達で剥奪した。そして国籍がないという理由で生きる権利さえ無慈悲に蹂躙した。 最高裁判所判例もこの措置を追認してきた。(塩見訴訟など) 残存する差別意識は、 こうした公権力の措置と世間の風潮によりかかってきた庶民の無意識の底に蓄積されてきた汚泥である。

  歴史のこの経緯に言及するのは代表的な憲法基本書ではたった一冊しかない。旧 「帝国」 大学の教授たちの教科書にはただの一行も言及がない。 この歴史認識は歴史の中での自己像を確立できていないこと、すなわち自分を知らないことになるのだと思う。

  市民社会――人間に内在する自由と平等という近代の希望 (あるいは夢) をこの日本で実現しようとすれば、帝国の作り出した歴史と恥部に苦しくとも光をあて、 それを制度上も精神の上でも乗り越えなければならない。

  本書は苦難の人生を歩んだ人々による日本の闇を照らしだす鏡かもしれない。




メディア・読書日記 2008.2.21



  佐藤 優 『私のマルクス』 (文藝春秋)

  キリスト教神学とマルクス主義の対話

  国策捜査の標的となって起訴され、512日間の勾留を体験し、「獄中記」 (岩波書店) で読書界を席捲した著者が青年時代の思想遍歴をつづった。

  1980年前後だから、今から20年以上も前のことなのだが、法政大学出版会の手でキリスト者とマルクス主義の対話について本格的な出版が行われたと記憶している。
  当時の私は (今もそうであるが)、現世社会がどういう道筋をたどって行くのかについては、だいたいの展望をもっていたが、 そして、その実践活動に時間をささげることに人生の価値を見出していたものの、もう一つそれだけでない人間の内面の満足、 というテーマが実践活動に参加するものにも、救済を求める人々にとってもあるのではないか、という渇望に似たようなものがあり、 文学方面の学会にひそかに出席したり、そういうことを思索する人物を求めて様々な本を読んだ。

  考えてみると、韓国の解放運動に登場する人々に魅力を感じ始めたのは、その辺の事情からきていたのだと思う。 岩波新書の 『韓国からの通信』 1〜4 (TK生著) の文章に引きつけられたのもそうだったし、後のことであるが、徐俊植著 『獄中書簡』 (柏書房)、 徐勝著 『獄中19年』 (岩波新書) もそういう魅力をもつ書物であった。

  私にとって、佐藤優の 『獄中記』 (岩波書店) もその系譜の本ではないかという期待があった。今度出た 『私のマルクス』 (文藝春秋) は、 キリスト教神学の系譜とマルクス主義が衝突し、交錯する神学研究の森の中に一人の青年がどのように分け入っていったかについて、書く。 この現世社会をこのまま肯定できるか否か、というところからある青年の人生は大きく分かれるのだが、佐藤優はどこでその最初の岐路に遭遇したのか。

  どうやら、その輪郭がはっきりしたのは高校時代のことであったらしい。本書では母校浦和高校の時代のことが出てくる。 著者は私より数年後輩だが、校風はあまり変わっていない。
  二年までに理数のテキストは三年分を全部終わらせて、三年次は練習問題だけをやらせる、というのは同じだし、 東大こそ命 (いのち) といった受験一辺倒の校風もよく似ていた。
  そのメインストリームの空気に著者はなじむことなく、自分で精神史形成の道を歩んだ。私自身も含めてそうなのだが、こういう生徒は逸脱者といえた。 運動部に打ち込むものとか、文学や哲学にとか、音楽とか早熟な異性体験とか。逸脱しているほうが深いところで秀才を軽く侮る。 どちらがよい人生を歩むかは本人しか評価できない。
  佐藤もそのような高校生だったようだ。

  高校時代、二つの大きな出来事があった。
  一つは、教師との出会いである。この本全体に流れていることなのだが、岐路における教師との出会いが佐藤にとって人生の途上で大きな意味をもつ。

  教師とは何なのか。
  思うに、よき教師とは生徒との出会いのときに自分もまた人生を歩んでおり、しかもその地位や思想や社会的影響が発展途上にある人のことなのであろう。 つまり、教師もまた、学んでいる人でなければならない。そしてまた良き教師は発展途上であるが、大きく成長しそうな、もっと言えば、巨大な爆発を遂げそうな人格や、 あるいは可能性ある人物により大きな人生を歩ませるために、本人も気づかぬ長所や、克服すべき弱点を示してやれる人のことであろう。
  その意味では成功に成功を重ね、失敗や挫折を知らぬ人よりも、一敗地にまみれ、あるいは、どん底に突き落とされ、 しかし、その中でもかすかに希望を見出してきた、そういう人の方がよき教師になれるのかもしれない。 つまり教師とは学識を伝える人ではなく、自分を含めた諸人生の経験の総括、抽象を伝達する人なのである。

  本書には佐藤の青春のあちこちでそうした背景を抱えているように見える魅力的な人格が、あたかも虚構の文学のように登場して、佐藤に助言する。 浦高で出会ったのもそんな教師であった。
  驚異的な記憶力によって、その助言がよみがえる。

  同志社大学神学部二回生 (関西ではこう言う) のとき、高校時代の倫理社会の担当だった教師から受けた助言。
  「佐藤君は教師や大学の先生に向いていると思います。ただ今後、もう一、二回波乱があるように思えますね。」
  「どういうことですか」
  「大学にも教会でも収まりきれないと思います。ゆっくり外国で勉強してくるといい。」
  ……
  「まあ留学は大学院課程を修了してからの話なので、いまは語学力と基礎学力を付けておくことです。とにかく本をよく読むことです」

  高校時代の経験で興味深いのは、東ヨーロッパの旅行である。ハンガリー、ポーランド、チェコ、ルーマニアを訪ね、庶民の生活に深くつかった。 社会主義とされていた国の生活の実態にふれている。その記憶と、その後、社会体制が崩壊した国々の歴史の動向とがからみあって興味深い。
  これを読んだからといって、国々の社会体制があれだけあっけなく崩れていった動向が得心いくわけではないが、 マルクス主義に唱導された社会での庶民的生活体験の解釈が興味深い。

  本書のクライマックスは、ナチスドイツの支配から亡命し、アメリカの大学教授の地位をなげうち、あえて自由が制約されたチェコに晩年の身を投じたキリスト者、 マルクス主義とキリスト教神学の対話に挑んだ神学者フロマートカと佐藤の思想的遭遇であろう。

  およそ社会変革の運動に人生の貴重な時を費やし、その時間と限られた富、努力の一切を目的に献呈してきた者にとって、本当にこれでよいのか、 これでよかったのか、という問いは避けて通ることができない問いである。
  もっと他の道はなかったか、いや一体なぜ自分はこのことをやってきたのか、一体なぜ生きてきたのか、何のために。
  そして、一生を賭してきたのに理想は一向に実現されない。それどころか、時代は闇に向かって突き進んでいるように見える。
  世の中は見えにくくなっているように見える。醜いものが美しいとされ、美しいものはうち捨てさえされる。では、一体、救いというものはないのか。 何をもって希望とするのか。これは大切な問いである。いやそんなことはないのだ、とごまかしてはいけない。
  佐藤が本書で紹介する神学者フロマートカは、思想的な営為(いとなみ)と、社会的な実践行動の両方で、この問いに真正面から向き合った人であった。

  「……古い社会から、より公正で、一言で言うならば、より人間的な社会を建設しようとする社会主義者の努力に踏み込むことなしに、 対話の問題を深く理解することはできない。人間の生活と歴史は、自己が理解するよりもずっと複雑であることを学ぶのを恐れる人々はそう多くはない。 ……フロマートカ なぜ私は生きているのか (99〜101ページ) からの本書の引用の一部」

  ここから佐藤は無神論の相対性と人間存在の根底における超越生への意識の絶対性という問題を引き出し、 フロマートカの、キリスト者とマルクス主義者の哲学的な地平での対話――その可能性という問題提起を抽象する。

  社会変革が進まないから、保守化、反動化が進んだから、革命家の人生は敗北の人生だったのか。違う、というならなぜなのか。 そのようなテーマの思索のために、本書がある一つの方向性を示してくれることは間違いない。




メディア・読書日記 2008.2.4

2008.1.27 鹿児島大学にて講演、シンポジウム参加


  志布志事件という選挙違反冤罪事件が、こんどの旅行のテーマだった。
  野平康博弁護士と、12人の被告 (被告人ということが正しいが、一般の文章では被告といういう方がなじみやすい、以下、被告としよう) のうち、 中山信一元被告 (県会議員) とのインタビュー、それに鹿児島大学で行われたシンポジウムへの参加であった。
  記者や弁護士、ご本人たちとの語らいの中から人々が共通に抱いている事件の印象が浮かび上がってきた。

  印象とは次のようなことである。 事件があって誰が犯人かを見誤ったのではない。事件は作り上げられたのだ、というのである。 私がこの印象を自分自身の仮説として掲げるには、なお時間を必要とする。
  そこで本稿では、事件の核心となるこのポイントは外す。そして、すでに確定された事実に従って、事件が示している外形について記しておくことにしよう。

  第一は、12人の被告に、起訴された買収事犯について無罪の判決が下っており、その判決の中心論点は有罪に結びつく自白に信用性がないということである。

  第二は、勾留の長さである。
  中山信一被告に395日、その妻ひさ子被告に300日の勾留がついた。7回、地裁が保釈決定したが、検察庁の抗告が行われ、福岡高裁は地裁の保釈決定を取り消した。

  第三は、訴因不特定の問題である。
  起訴以来、2年間公訴事実の中心をなす買収会合の日付は特定されなかった。他の被告の自白内容からして、検察側は1月8日と、 3月25日をターゲットにしているように考えられた。 しかし、被告、弁護側の再三の求釈明にもかかわらず、買収会合の日付は特定されず、被告側はアリバイ立証に入れなかった。ここを少し詳しくいうとこういうことである。

  中山被告の弁護側は、前述したようにある日付について中山議員が同窓会に出席していたため、この買収会合には出席できないことがわかっていた。 同窓会出席の日時について参加者の証言は明確でゆるぎがなかった。だから、アリバイ立証に入りたいのだが、検察側が買収会合の日時を起訴状で特定しないので、 うっかりアリバイ立証に着手できない。
  もし、A月B日○○の場所に出席していない、なぜなら中山被告は同窓会に出ていたからだ、との立証に成功していたとしても、いや会合はC月D日だったと、 構成しなおされれば、アリバイ立証は宙に浮く結果となってしまう。

  判例の識別説 (
リーガルマインド第43回を参照) がこの訴因不特定を支える理論となっていることに注意したい。

  第四に、接見交通権の侵害問題である。
  捜査段階に弁護人が被告人らと接見していた54回について、被疑者の調書が取られ、それが法廷に提出されていた、という。

  被疑者と弁護人は捜査側にその内容を知られることなく会話し、相談することができる、とすることが憲法34条、刑事訴訟法39条1項の立法趣旨である。
  この秘密が守られることによって初めて、強大な力をもった捜査側に対して被疑者弁護人は有効な弁護活動を期待することができ、 憲法34条の弁護人依頼権を実質化することができるのである。したがって、この秘密を侵すものは憲法違反のそしりを免れないのである。
  ならば、接見内容につきいちいち全部を調書にされていたのでは接見内容は録音されているのと同じである。

  第五に、任意、強制の両方の段階で違法な取調べが行われていることである。
  すでに報道されている踏み字の強要がそれであり、中山議員に行われた嘘の 「お前の奥さんはすでに自白しているぞ。」 という尋問の方法である。
  きり違い尋問といわれる手法で、違法性は強いものとされている。
  だがその故に生産された自白調書であっても、地裁判決 (確定) は任意性を否定しなかった。

  第六は、国選弁護人の解任事件である。
  国選弁護人の二名が裁判所から解任された。
  接見禁止となっている被告に家族からのメッセージを示して読ませたことが解任の理由となったという。
  これは、接見禁止の効果、国選弁護人選任、解任の権限の範囲如何という重要な法律問題がからむので別稿をおこしたい。

  シンポのあと地元の記者の人たちと薩摩焼酎をのみながら意見をかわした。

  一人、テレビキャスターがいたがシンポで父上の取調べ体験を語ってくれた。ある選挙違反事件で取り調べを受け、 帰宅後 俺はこんなに侮辱されたことはない、と涙をうかべて家族に語ったという。その傷はまだ小学生だったキャスターの心に残った。 親しい職場の仲間にも語っていない体験だという。志布志事件の被告や周辺の人たちの多くが同種の傷みを抱えているのだが、 自分の体験があるだけにその痛みが実際に伝わってくるのだという。
  もう一人の記者は内部告発についての、深刻な取材体験のほんのさわりを話してくれた。 記者たちのジャーナリスト人生をかけた、身命を惜しまぬ行動によって志布志事件の真実はすこしずつ全貌を現している。 事件の深部の構造は全国メデイアによって、もっと伝えられるべきであろう。

  報道不信というキーワードがある。私たち市民にとって由々しい大事だと私は思っているが、 志布志事件の記者たちはそれをのりこえる努力の一歩を示しているのだと感じた。