エッセイ     梓澤和幸

母といた劇場
(5月8日)

  幕間の客席の通路だった。緋色の幅広い緞帳を背景に、高齢の女性をきづかうように、 スーツとネクタイの正装で、中年の男性がゆっくりとしたスロープをあがってくる。親子だろう。

  「和ちゃん (母は私をこう呼んでいた) も大きくなったらあんな風に私を連れてきてくれるのかしら」 と、 母はうっとりするようにこの光景をみながら言った。
  中学生だった私の年齢から逆算すると母は30台の後半か41、2歳だった。
  そのころとしては、早熟で思春期の悩みも深かったからこの場面と母の言葉への内面の反応は複雑だった。
  ただ黙ってこの母子らしい二人連れが通りすぎるのを見ていた。

  母は8歳で母親に死別している。こどもの私たちの学校にだす個人調書に父母の学歴欄があることをいやがっていたが、 いま思い返しても不思議なほどに、音楽、文学、演劇に親しんでいた。
  父が織物問屋から独立して開いた群馬県桐生の洋品店の裏の6畳の部屋に小さな本棚があったが、 壷井栄、トルストイの本格的な装丁の本、それに、啄木の歌集がならんでいた。
  まだSPだったが、クラシック音楽もよく聞いていた。 ラジオ番組でよく校歌特集などをやっていたが、早稲田や明治、 立教といった学校のよく知られた歌が流れると、 「和ちゃんはどこへ行くのかしら」 と遠いところをみつめるように言っていた。
  その母は、親戚の家に預けられて修行した。それで邦楽の素養もずいぶんあったように思う。 NHKしかなかったラジオから、子供にはとても意味はわからないが、ただ春先の陽だまりの中におかれたような、 心地よい音が木造の小さな家に流れていた。繊維の町桐生は、のぼりざかの日本経済のそのまた中心のような栄え方で、 繁華街に面した店舗と住宅をかねた我が家には、とおりを行き交う人の下駄や、ぞうりの音、 ときに卑猥な女工さんの冗談といったにぎやかさが深夜まで聞こえてくるのだった。
  そのおかげで繁盛している小売店には問屋さんから招待がかかった。 その切符で母は歌舞伎、新派を見るため、よく上京していた。 小さなこどもには役に扮した俳優たちの化粧は、なんだか気味悪く、一緒にとねだった記憶はない。

  さて冒頭のシーンである。この日は中学生になったせいか、勧進帳という演目をみせておこうという配慮のせいか、築地の歌舞伎座までつれて行かれた。
  人情物の演目がおわり、ベルがなると、先代松本幸四郎が弁慶を演ずる 「勧進帳」 の開演となった。
  長唄社中の人々の声、鼓と三味線の音、それに芝居特有の柏木の音がはじめてみる子供の胸もかきたてるような独特の効果を持って響いた。
  弁慶と富樫のかけひき、富樫のみせる惻隠の情、それに主人の逃避をはかるために主人義経を山伏の金剛棒で打ち据える場面など、もうわかりきった心理の展開を追ってゆく歌舞伎の有名な演目で、時代劇の映画をみなれた子供には退屈だったのかもしれない。
  弁慶が酒をしこたま飲んでよったふりをし、長時間の舞を踊り、富樫がその華麗さによっているうちに主人公と同僚を逃す中盤のクライマックス ── 「円元の舞」のところで眠ってしまったらしい。あとで母からきつくしかられた。
  だが ──。
  舞のあと、一瞬の静寂が来る。
  舞台も客席も突然暗くなった。幸四郎演ずる弁慶に照明があたると、あれをこそ哄笑というのだろう。義経を逃亡させるのに成功した弁慶は大きな口をあけ、してやったりという表情を見せると、六尺の金剛棒を左の肩におしあてた。その棒をかつぐようにしながら、もう一度笑って型をきめる。
  客席から緊迫感に満ちた掛け声。
  そこから、ぴーー、ぴ、ぴーーーという横笛、ドン、ドン、ドドドンーという大太鼓、かつかつかつかつ。 かつーーーーんという拍子木、それに花道で六方をふむ役者の足音、にはじめての私は完全にひっぱりこまれた。
  それになんと。客席が大きく海のうねりのように波打つのである。観客が中腰になっているせいか、花道で役者が前傾姿勢をとればその方向に、後ろに大きくのけぞればまたその方向にと波は同調する。
  花道の役者に当たっているはずの照明はうねる客席をも照らし出していた。

  席は花道のまくのすぐそばだった。入ってゆく瞬間の俳優の横顔がこのいまも思い出せる。
  あのときたしかに、母は隣にいたのだ。