エッセイ     梓澤和幸

ビデオ「アマデウス」を観て──才能論
(2003年9月18日)

  ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト。この作曲家のミドルネーム 「アマデウス」 が、神の愛 (め) でし子を意味することを知ったのは著者から直接いただいたエッセイ集 「モーツァルトは鏡」 (海老沢敏著、音楽の友社刊) からだった。
  映画のタイトルがモーツァルトではなく、 「アマデウス」 であるのには大きな意味がありそうだ。
  英語で “才能” を talent とか gift と表現するが、これらの言葉は、 “神から与えられた才”、熟した日本語で言えば “天与の才” の意である。
  この映画はその“才能”とそれへの“嫉妬”を真正面からテーマにすえている。
  しかもなまなかの嫉妬ではない。
  タイトルは 「アマデウス」 だが、主人公はモーツァルトの才能への嫉妬に身を焦がすほどに苦しむ作曲家のサリエリだ。サリエリとて才能と運と地位にめぐまれた音楽家であった。しかし、不幸なことにその才能が、まわりの俗物貴族や凡才の誰もが気づかないモ−ツァルトの越えがたい天才を見抜いてしまう。
  サリエリの、眼だけで語る、自分の持っていないものを持つモーツァルトの天才ぶりへの驚愕。これは俳優の無言の演技だ。
  最初は驚愕、あるときは憧れ、そして嫉妬。やがてそれは、同じ才能を与えてくれなかった神への憎悪に変わる。
  サリエリが十字架を焼く場面が出てくる。キリスト教を少しでも知る者ならば、十九世紀のクリスチャンが神を憎悪するだけではなく、その憎悪から神を象徴するシンボルを火にほふる行動にまで飛躍することがどんなに恐ろしいことか想像できることであろう。
  やがてサリエリは、神への復習としてモーツァルトを毒殺し、自らは狂ってしまう。

  このテーマについて、キリスト教文化を背景に生きてきたヨーロッパの芸術家といつかディスカッションをしたいと思っていたところ、偶然その機会に恵まれた。
  イタリア、ミラノスカラ座の前演奏部長マダウ・ディアズ氏とお会いしたのだ。
  スカラ座の演出部長と言えば、ご自身が豊かなものをもっているだけでなく、才能ある様様な芸術家とめぐり会っていることだろう。事実、ピアニストのポリーニ、指揮者アバドに加えて、ドミンゴ、スカルラッティといった第一級のオペラ歌手等と数え切れないほどたくさん出会っておられた。
  ── 「アマデウス」 を観て、才能とか、才能の限界とか、才能ある人への嫉妬とかについて考えさせられました。 “才能” とは一体何でしょうか。
  単刀直入にこう切り込んでみた。
  答はこうだった。
  ──私は才能を意味する talent とか gift ということばより、プレディスポジツィオーネ (素質) ということばを大切にする。
  確かに、人は生まれつきプラスにもマイナスにも、様々なプレディスポジツィオーネを持っている。音楽家になりたいと思っても美しい音を出す声帯を持っていなければどうにもならない。しかし問題は、このプレディスポジツィオーネとその置かれた環境である。良いものをもって生まれても、誰かが見出してくれなければ育ちようがない。この地球上で、どれだけたくさんの子供が良いもの──それは文学、絵画、音楽、自然科学、社会社学等いろいろである──を持ったまま、誰にもそれを発見されずに朽ち果てようとしていることか。
  音楽に即して言えば、このプレディスポジツィオーネとして基本的に大切なものは、アモーレ (愛) を感ずる心、他人の心の痛みや悲しみを感ずるセンシビリテ (感受性)、空想を大きく膨らますファンタジエ (想像力) だ。
  これらの心のうちにあるもの−プレディスポジツィオーネ−を声や楽器などの音に結び付け、それを表現することのできる人を私は音楽の才能のある人と呼ぶ。
  “才能 (タレント)” という単語はプレディスポジツィオーネがたどりついた結果を語る言葉に過ぎない。プロセスこそが問題なのだ。

  私は 「アマデウス」 のある場面を思い出した。ストーリーとは関係なく突然、サリエリの少年時代の表情が出てくる場面だ。
  教会音楽を聞きながら、日常を超えた崇高な価値への憧憬に輝く少年サリエリの表情。サリエリもディアズ氏のいうプレディスポジツィオーネを持っていたのだ。ただ、モーツァルトのような環境に恵まれなかった。例えばモーツァルトの父にあたる人がサリエリにはいなかった。あの場面は作者のそういう主張の表現かもしれない。
  ディアズ氏も、歴史の真実としてのモーツァルトと同じ環境に置かれなかったことそのものを憎悪していたかもしれないと言っていた。
  するとこれは人間が乗り越えることのできない運命、さらには神の残酷さをも描いたドラマということになるのだろうか。

  ラストシーン。
  老いて狂ったサリエリの懺悔を聞く神父の、何か見てはならないものを見てしまったような表情が目に焼きつく。