エッセイ     梓澤和幸

政治でない政治を
(2005年6月23日)

  いつから政治家は胡散臭い職業とみなされるようになったのか。 もし民主主義や自己統治の価値が憲法の基本書でとかれるように、 近代社会か否かを腑分けする重大な価値基準であるとすれば、いったい政治を忌避する私たちの内面とは何なのか。

  テレビもよくない。
  政治討論をさせるときに我がちにマイクを奪いあい、しゃもや闘犬のようにかみつかせ、 それを視聴者はどこかゲームのように眺める。
  なんだか、下品な感じがするといって敬遠する向きもある。

  どこかの町に、どこかの国に茨木のり子が詩にうたったような、のんびりとした、 親しみをもてるような人間関係としての政治はないか。
  今日、国分寺市泉ホールで開かれた集会に出向いた私の内面はそんなものであった。

  白髪の、じんべえが似合いそうな男性が発言した。
  友人がくるとこの町を私はよく案内するのです。 みんなびっくりする。新宿からわずか30分のこの町にこんなに緑があるのはなぜ?
  公園はおどろくほど少ないのです。東京都の中でも公園の占有率は決してよくない。
  秘密は農にあるのです。農のある町国分寺。優秀な勉強している農家が緑を畑を木立を守ってくださっている。 市民も一緒にこの緑を信念をもってまもりつづけてくれる人に出てもらわなければならないと思う。

  元都議会議員の女性は、久しぶりの演壇体験に 「あがっている」 と告白しながらこう言った。
  市長には予算提案権がある。議員にはそれがない。 その権力を握り続けると、いつか勘違いして自分が権力者になったような気がする間違いを人間はする。 だから3期以上は出ないでほしいと要望したら、この候補はためらいなく受け入れてくれた。
  それで私はおそかったが、応援団体をつくって代表をつとめている。
  この人には 「私が」 でなく 「私たちが」 という言葉がある。

  ある市民団体の代表は、いまの政治を 「こわれた自動販売機」 と表現した。
  いくらお金をいれても何も出てこない。会場がどっとわいた。こういう飄逸というのは、 生活の中からしか出てこない。

  市長選にはいまの市長星野氏、市議会議員木村氏、 それに中村氏が出るのだが、この日は中村氏を支持する団体の集会であった。 なんだか素人くさく、しかも女性が多く、知り合いがそこここで挨拶しあうという感じの集会であった。

  中村氏は防災のことをくわしく、詳しすぎるくらいに語った。
  神戸では命をおとした方の80パーセントは、自宅の倒壊が原因だった。 ここに有効な対策をして防ぐこと、ご近所と地域の人間的なつながりを作れば、私たちは助かるのだという話であった。 そして、国分寺駅前の開発には若者や障害者も店を開けるような、そんな開発もある、と夢を語った。 なんだかとても心あたたまる政治の話であった。

  だが私の一番感じたことは、政策の内容より中村氏の朴訥 (ぼくとつ) なしゃべりの中にある一途さであった。不器用さであった。
  野心というようなものを微塵も感じさせない一途さであった。

  器用な世渡りのうまい人たちが政治の座についてもろくなことはない。 必要なのは、朴訥にして、常に全体のこと、公 (おおやけ) のことを考え、 言葉は少ないがあるときは果断に実行するという人ではないのか。

  かえりに近所の、手作りの野菜をくださるシャイなかたり口の退職後の人生を あたらしく切り開いている男性とぽつりぽつりと話をしながら、自宅にむかってゆっくりと歩いた。
  涼しい風が紅潮したほほにあたる。

  ふと、「12人の怒れるおとこたち」 の最後の場面を思った。 裁判所の扇形にひろがる階段のところで、ヘンリーフォンダ扮する男性が同じ陪審員の中で誠実な対応をしてくれ、 そのおかげで見事な評決にいたる、その人の名前を聞く場面である。
  あまり親しくはなかった男同士が、ある体験をもとに一夜のうちに一挙に距離をちじめるようなあのラストシーンである。