エッセイ     梓澤和幸

友  情
(2005年7月13日)

  桐生の秋は、子どもの心にくっきりと刻みつけられた。南の稜線を占める吾妻山、水道山は、地の色が低い雑木の茶色なのだが、 そこここに、朱のうるしの色が山肌を染め上げる。西の地平線は藍色の赤城山の遠景が占領し、 手前の近景は緑の濃い山の凹凸があった。
  見上げると、いわし雲が、澄んだ空の高いところに浮かぶ。
  木造の小学校の校舎の間は広い間隔があって、ダリア、ひまわり、百日草、コスモスでいっぱいになる花壇と、 運動場とは違う子どもたちのちょっと秘密の場所めいた遊び場になっていた。 校舎に沿って桐の木が植えてあり、この季節になると、風にのるように、一枚、また一枚と地面に落ちてきた。
  校舎と校舎は、すの子の板をひいた屋根付きの渡り廊下でむすばれていた。
  渡り廊下の両端は木の板で仕切られていて、低学年の子どもでも外を見られるように、かなり低いつくりになっていた。
  子どもたちの中には特別に感受性の強い子がいて、この季節を象徴する桐の葉の動きをいつまでも、じっと見ているのであった。
  50歳台にさしかかった砂賀先生も、今日はなぜかこの光景が胸にとまり、ふと立ち止まって葉の散るのをながめた。 「この頃なぜか秋になると、もの深く考えるようになった。なぜなのかしら」 と自問していた。遠景の山の青さがひときわ胸にしみいった。
  ふと見ると、見慣れない光景が目に入った。
  校舎のそばには、排水を流すコンクリートで作った溝があった。
  「おっ、S君じゃないか、何をしているんだ。もう授業の鐘も鳴ったのに」
  その頃は、小使いさんと呼ばれるおじさんが授業開始と終了の鐘を鳴らした。

  S君が一人で溝に落ちてくる桐の葉っぱをひろい、いっぱいになるとごみ箱のところに持っていくのだ。
  そうか、S君はこのままのしておくと、溝がいっぱいになって水が流れなくなるので、自分で葉っぱを掃除しているのか。
  誰にも知られずに。この私が見ているのも全く気がつかずに一心不乱だ。
  砂賀先生は何だか胸がいっぱいになった。小さな子どもに、貴いことを教えられたようなあたたかい気持ちになった。 ごくんと一人でつばをのんだ。
  走るように受け持ちのクラスに入ると、子どもたちみんなの目がふりむく。砂賀先生は、この瞬間の躍動する気持ちが好きだった。
  「S君はどうしたのかな」
  黒板の前においてある教壇の小さな机に出席簿をひろげながら、先生はわざと聞いた。
  必ず一番最初に反応する香代子が答えた。ことばが強く、いつも男の子たちを大きな少しかれた声で叱咤激励している女の子であった。
  「S君はねえ。いつも休み時間が終わると一番はじめに教室にもどってきて黒板を消したり、 先生のチョークをそろえたりしているのに、今日はどこかに行っちゃったんみたい」
  行っちゃったんみたい、というのはこの地方特有の言いまわしであった。
  「ふーん」 とS先生は答えたあと、やっぱりこのことは話しておこうと気をとりなおしたように、話しはじめた。
  「今日はねえ。先生は、うーとうれしいことがあったんで、話しておきたいん」
  これもまた、この地方特有のことばだった。

  「あの渡り廊下のところの風景が先生は好きなん。いつものようにね。あそこに見とれていたらねえ、 男の子がさ、一人でどぶに落ちてくる桐の葉っぱをさあ、かたづけているんだよ。それはそれは一生けんめいなん。
  先生はどこのクラスの子かなと思っていたらさ、S君なん。じーっと見てたけどやめないん。 声かけようと思ったけど、何かもったいなくってさ、来ちゃったん。だけどうれしくってさ。こうしてみんなに話してるん」

  「わかるん (わかります)。何で先生がうれしいか」
  とまた香代子がはじけるように答えた。
  ぼくはそのやりとりにぽっとほほをそめ、眼を輝かして聴いているT子の横顔をそっと見た。
  ひき目でT子の心の中に何が動いているのかが透明に見通せるようで、何だか気落ちした。
  色が白く、おかっぱのT子は、クラスの誰もが、とくに男の子が一目おいていた。

  がらっと教室の前、右側の扉が開く音がした。S君だった。
  みんなの目が向いた。
  S君は、すみません、おくれてしまって、といったが、先生の笑顔とみんなが向けた視線に特別の意味があるのを悟って、
耳まで真っ赤になって、泣きそうにはずかしそうな顔をした。
  「S君、先生が見ているの、知らなかったんだろう。いいよう。いい。大好きだ」

  拍手はおこらなかったが、何だか幸福な満ち足りたような気持が、教室いっぱいにひろがった。
  T子が顔を赤らめ、眼を輝かせたことは嫉ましかったが、ぼくも何だかうれしかった。 この時代には善良な行為と、それにむけられた称賛をそのまま受け入れる子どもたちのつながりが、たしかにあった。

  50代半ばになった。みんなで先生のお墓におまいりすることがあった。ご長男も教師だったがもう古稀に達していた。
  「母が亡くなって20年もたって、おまいりくださるなんて」
  と、この先生は目をしばたたいて言った。