エッセイ     梓澤和幸

希  望
(2007年7月 1日)

  人間は醜いこと、むごいことをやってのけるが、同時に、同じ人間が人の魂を揺さぶるような行為をすることがある。

  ある日の刑事法廷で、あれ、聞き違ったかなと思った。柔和な顔の三〇代前半の裁判官が、被告人をさんづけで呼んだのである。

  詳しく書くことはできないが、刑事事件の身柄(保釈がつかず、勾留されている事件のこと)の法廷があった。
  家族の歴史と、自分の過ちが法廷の中で明らかにされていった。被告人は、法廷の床を見つめながら肩をふるわせて泣いた。
  法廷を出て行くとき、背の高い被告人に弁護士二人がかけよって、無言のあいさつをしようと思ったが、被告人はしきりに傍聴席の誰かに視線を合わせようとしていた。

  法定を出る瞬間。――それは、腰に太い緑色の縄がうたれる屈辱の瞬間である。足元のぞうりが目に入った。
  私の肩を越えるように、もう一度青年の視線は傍聴席に見入った。
  「おやじー。おやじー。ありがとう」
  法廷にかけつけ、どんなことがあっても、子どもを守っていくと言ってくれた父親への感謝の言葉だった。
  こんなに切実な響きをもった、絞り出すようなお礼の風景を見たことがない。


  三〇年ほど前、三井明さん(故人)という裁判官が被告人をさんづけで呼んだ話を聞いたことがあった。
  「何だか、気恥ずかしくてね。ちょっと勇気が要ったね」

  牽強付会かもしれないが、私は三井さんのこのプラクティスを信仰と結びつけていた。
  キリスト教である。プロテスタントの神は、許す神である。キリストが全人類の現在を背負って、十字架の刑の苦しみ、 痛みの責め苦を受けたがゆえに人間は許され、そして、神に愛される存在になった。神に愛された人は、尊厳をもつ、 よって人は罪を犯したものでもわが子のように、愛されるべきであり、尊重されなければならない。愛するとは、キリストがそうであったように、 自分の身が死ぬ苦しみを受けても相手を救うことである。

  三井さんは、被告人を人間として愛した。その尊厳を大切にした。だからさんづけだったのである。

  子の、親への切実な礼の場面を見た法廷は、三井さんの実践を行っている法廷でもあった。
  若い裁判官はどういう内面をともなって被告人をさん付けで呼んでいたのだろうか。
  生きてさえいれば、昨日より今日は、少しはいいことに出会うかもしれない。


  それが希望というものだろう。