エッセイ     梓澤和幸

韓国に旅して
 (2009.6.13)


  6月上旬、ソウルに旅した。ソウルではこの季節が一番空がきれいで、すごしやすいのだという。夕方から暮れていく街の雰囲気がとりわけ魅力的である。

  ノムヒョン前大統領の逝去直後で、独特の街の雰囲気があった。
  新聞は、5月30日金曜日の50万人とも100万人とも言われる民衆の葬列を写真入りで伝えていた。黄色い帽子や黄色いスカーフをまいた人たちであった。 この色はノムヒョン大統領当選させた選挙のキャンペーンの色であった。 この葬列の大きさは、軍事政権の時代に幕を引いた1987年の民主化大抗争を超えるものだと、ある弁護士が語った。全国では500万人に達したという。

写真は、5月29日の国民葬が行われた日のノジエ(路祭)―― 民衆葬の模様である。黄色はノムヒョン前大統領が当選した大統領選の当時のキャンペーンカラーである。


  葬儀の翌日から徳寿宮 (トクスグン) という宮殿のメインゲートである “大漢門” (デハンモン) の前に市民が作った祭壇があって、首にマフラーを巻き、 帽子をかぶった前大統領の写真が左右に飾られていた。葬儀の日、市民祭壇には7時間も8時間も待つ列ができたという。

  コリアヘラルドだったと記憶するが、英字新聞がこんなエピソードを語る高校生の声を載せていた。
  高校生はあるとき、コンクールか何かで優勝し、大統領の執務所である青瓦台(チョンワデ)に招かれた。
  大統領は全く高くかまえたところがなく、“隣のおじさん” のように声をかけてくれたという。地下鉄の駅につながる行列の中で、このインタビューは行われたようであった。

  6月1日は日曜日だった。朝8時30分頃ホテルを出て祭壇の前にさしかかると、30代くらいに見える女性が、平服で祭壇の前で3度座っては床に顔があたるまで低頭し、 そして、立って礼をするという方法で大統領を追悼していた。これを受ける側の60前後の男性は喪服に身を固めて、 次々と訪れる市民と短い言葉を交わして深く礼をするのであった。

  夜、この場を通りかかると大きなテレビ画面が映し出されていた。50人とも100人とも見える人たちが大漢門前の石だたみに座り、 映し出される大統領のインタビューや演説の様子に見入っていた。

  土曜日の夜、警察官が突然やってきて、祭壇を壊した。気配を察したテレビ局が現場を映した。壊された祭壇の破壊のあとは、そのまま片づけずに置かれていた。
  民主労働党の女性国会議員の一人(弁護士出身)が祭壇の向かい側、徳寿宮の塀の前でテントを張って座り込みを6月4日から開始した。

  私がソウルに到着した日から、ずっと10万人の集会が行われることで有名なソウル市庁前広場は、戦闘警察のバスで囲まれ、市民が全く出入りできなかった。 その向かい側の徳寿宮側の塀から6m幅の歩道の外側に市庁舎を取り囲むバスと同様のバスが隙間なく並んでいる。 ときに歩道に出て小走りしたり、号令をかけたり、あるいは弁当やお茶のボトルをもって歩く。戦闘警察の隊員たちは、若く、幼く、少年の顔をしている。 この人たちは18歳くらいなのか。

  祭壇を壊したり、デモ隊とぶつかり合ったりする警察官と同じ人たちとは、とても思えない幼い表情に不思議な思いがした。 20人くらいの集団に、ちょっと年長の男性が運動部の訓練のように、気合いをかける。 そうすると、走るリズムに合わせながら 「ヨイショ」 「ヤルゾ」 と聞こえるような叫び声をかけて、走っていくのであった。

  ホテルのフロント脇のトイレを10人ほどの隊員が占領していた。入口に行くと、囲まれるようでためらったが、一人がまわりを制して道をつくってくれた。

  突然のようなできごとがあった。木曜日の朝、バスは取り除かれ、市庁舎前広場の緑が目に入ってきた。幼稚園児や、アベックや散策する人たちが自由に歩いていた。 夜の音楽パフォーマンスにむけて、マイクテストがしきりに行われていた。
  この突然の広場の開放は何なのか。国家人権委員会という組織が勧告を出したことが利いたのだという人がいた。