エッセイ     梓澤和幸

晴れた秋の日──東京9条まつり (2010.11.16)
梓澤和幸

  11月13日、晴れた秋の一日、大田区産業会館で九条まつりが開かれた。
  運営に参加しているNPJがブースを出すので、準備作業をやり、一日朝から夕方まで場内で過ごした。
  一階のコンベンションホールは相当広い。大きな体育館のフロアーといった感じだが、そこが三つに仕切られ、メインステージ、休憩所、 そして60のブースのための出店エリアが設けられた。
  五日市憲法草案の起筆者のことを展示するコーナーとか、憲法フェスティバルのTシャツ売り場とか、 伊藤真試験塾の法学館憲法研究所といったブースの一角にNPJは陣取った。入場者は、11時から3時まで引きも切らず3000人だったとか。

  向かって斜め右のブースに、記憶に刻まれる言葉が大書されていた。
  マザーテレサがノーベル平和賞を受けたときの記者会見でのこと。記者たちがたずねた。
  「私たちは何をすべきでしょう。何ができるでしょう」
  「家に帰りなさい。そして家族を大切にすることです」 とマザーテレサは答えた。
  100人は超していると思われる世界のジャーナリストたちに語っているマザーテレサの素朴なふるまいと、 その言葉をメモするジャーナリストたちがつくる一場の光景が目に浮かんだ。

 上の階では合唱、プロの音楽家のリサイタルなどが開かれる。11時の開場、お昼、そして午後と、一般の参加者は引きも切らずだった。 知り合いの弁護士も随分顔を合わせた。

  NPJ編集長日隅弁護士、加藤事務局長の指揮の下、NPJは場内のビデオ取材に走った。
  手始めに、向かい側のブースに陣取った笹本潤弁護士に軍隊をもたない国コスタリカの話を伺う。 日本の場合、9条はあるが自衛隊があるわけでコスタリカは9条を現実化したのだからすごい。6ヶ月留学し、現地の実態を肌で感じてきたのだ。
  「現地の人たちにとっては軍隊をもたないことがそれほど異常なことではなく、ふつうの人々もなんていうことはない、 当たり前のことだっていうんですよ、」 と言う。
  笹本さんはきらきらと目が輝き、ほほを紅潮させて話した。青年弁護士の魅力満点であった。
  同弁護士の最近の著書 『世界の平和憲法あらたな挑戦』 (大月書店 2010年5月)をNPJ同時中継の画面に大写しにしながらのインタビューであった。

  次に4階へ。4階の小コンベンションホールは200人ほどのキャパシティのところだが、 崔善愛(チェ・ソンエ)さんと連れ合いの三宅さんの演奏がされることを知っていた。開始時間は4時頃と思っていたが、12時から1時と、かなり早い。
  会場に急ぐ。後半、崔善愛(チェ・ソンエ)さんがショパンについて話した。
  ショパンは遺言で三つのことを言い残している。
  1、刊行していない書きかけの作曲原稿は焼き捨ててほしい。
  2、葬儀ではモーツァルトのレクレイムを流してほしい。
  3、私の心臓はワルシャワの土に埋めてほしい。

  ポーランドはロシア、オーストリア、プロシアに三分割された。友人たちはロシアの過酷な侵略と闘う戦列に入った。ショパンもそうであった。 11歳で作曲を発表し、オーケストラとピアノ協奏曲を共演してデビューしたショパンの才能は、恩師や友人たちも早くから認めていた。 独立運動にこのまま従事していては、ショパンの音楽は歴史の中に埋もれる。
  地図の上では消滅してしまうかもしれないポーランドを、音楽に託して歴史に伝えていってほしい。
  「君は、ぼくたちのことを音楽で伝えてくれ」
  友人たちは亡命をすすめた。ウィーンを経てパリで亡命生活をしたショパンにとって、ポーランドは片時も忘れることのできない故国だった。
  死んだら心臓をポーランドの土に、とはどんなに痛恨のこもった言葉だろう。
  崔さんの著書 『ショパン』 (岩波ジュニア新書)にZAL(ジャル)というポーランド語が出てくる。ショパンはポーランドを語るときこの言葉をよく使ったという。 その言葉の意味を演奏後のインタビューで聞いた。喪失感とか悲しみとか恨みとかの日本語がそれにあたるという。 わたくしたちはロシアによる抑圧のため、故郷に帰れず母親とも会えないまま、 死んでゆくショパンの胸を満たしていた感情を共感する力を持たねばならないのだろう。

  チェロを弾く三宅さんがステージ中央に進んだ。この演奏家はどこかひょう逸として、いつもユーモアをたたえた話をする。 持参の弓についてとても意外な話をした。
  この弓はパブロ・カザルス所有のものだったと言うのである。ある人が三宅さんがイタリアに留学するということを聞いて、カザルス先生の弓を貸してくれた。 ためらう三宅さんに 「いいんだ。これをもってイタリアで勝負して来い」 と言ってくれたんです。
  さらに、その弓が収集家の手元を離れることになった。
  なかなかお金のかかることには厳しい人がいるんです、とユーモアをきかせて三宅さんはピアノのほうを示した。ちょっと客席に笑いが起こる。
  弓は三宅さんのところに来た。
  その弓で三宅さんは 「鳥の歌」 を弾いてくれた。カザルスのふるさとカタローニアの自然を想像させる広がりのある音。 その故郷のためにカザルスが悲しみをこめて才能をとじこめたというカタローニア。 まるでカザルス先生が弓とともにそこにきて、無言のうちに音だけで語りかけ座って悲しみと痛恨をともにしているような演奏だった。 たしかにあのときと今は少しも変わっていない。

  この小ホールのそばに本日の出演者、元テレビプロデューサーの仲築間さんを見つけた。NPJテレビ、さっそくインタビューした。
NPJ 仲築間さんが現場にいた15年前と今、テレビは変わりましたか。
──変わった。
NPJ どんな風に。
──みんなが今日、明日のことしか考えていない感じだな。憲法25条とか、9条とかそういうことをやると、あっそういう人は結構、 と言って仕事が局の中で来なくなっちゃうというんだよ。
NPJ 何でですか。
──労働運動が弱くなったことにつきるな。大メディアの労働運動が、産業の中のこと、つまり労働条件のことだけやって、外に出てこないんだよ。
  今日、どうですか、テレビのクルーは来てないでしょ。これだけ生き生きとみんなが憲法9条を語って、楽しんでいるというのに。
NPJ 希望はどこにありますか?
──視聴者が手紙を書くこと。いいことやってるなと思ったら、すぐ手紙。これが大きな力をもつんですよ。

  NPJの夕方の盛り上がりは、ゾウ列車合唱団の子どもたちだった。大城弁護士による小5か小6の3人にインタビュー。
NPJ 今日どうだった。
──楽しかった。
NPJ 何をしたの。
──歌った。
NPJ 具体的には。
──え、具体的って何。
NPJ うーんとつまり、何歌ったの。
──ゾウ列車。かわいそうなゾウを忘れないで、っていう歌。戦争で餌を与えられずに死んだゾウさんのことを忘れないで、っていう歌。

  少し経つと、9条まつりの運営委員である中年の男性が少し興奮気味に、子どもたちが盛り上がりましてね。 家に帰ったらNPJを見るんだ、と言ってくれましたよ。と話しかけてきた。
  9条祭りはかくして夜8時半まで続いた。

  翌日、くもり空から晴れ間が見えた日曜日、深大寺公園に家族で出かけた。小さな子どもたちと遊ぶ家族連れが、 公園の中心にある芝生の広場でゆったりと遊んでいた。
  きのう一日を反すうしながら紅葉の中を歩く。
  「陣屋」 というおそば屋さんで、気合いの入ったおそばをいただく。その日一日を商い、そんなに大きくはしない。お客さんと一緒に歩んでいく、 というような気構えか。そういう味のおそばだった。
  そのあとすぐそばの喫茶店に入った。ほとんどの席がいっぱいだった。
  一角のあまり目立たないところに9条まつりのポスターが貼ってあった。ちばてつやの漫画入りの──。
  店主ご夫妻にきのうの盛況を話すと、ことのほか喜んでおられた。
  「いいお話を聞かせていただいてありがとう」 という言葉があった。出口に9条の会発足時のポスターが貼ってある。 故人となった加藤周一さん、小田実さん、井上ひさしさんの写真が微笑んでいる。
  「亡くなった方もいらっしゃるんですね」 と、惜しむような店主ご夫人の声が聞こえた。
  しかし、今日のこの日も、ポスターには奥平先生の顔があった。憲法研究者奥平康弘先生の、簡単には笑わないぞ、 という気持が伝わって来るような表情がそこにあった。


附記
  祭りの会場では、地元小金井、国分寺9条の会のブースもあった。9条おじさん、箕輪喜作さんといえば、お一人で6万人に話しかけ、 9条を変えるなという署名をすでに39300筆集めた人である。(最近 『9条おじさんが行く』と いう本を発刊された。当日、体調悪く、欠席された。)
  今日このエッセイを書いていると箕輪さんのお手紙が届いた。箕輪さんのお仲間が祭りの会場で配ったパンフレットに、 箕輪さんの本について書いた感想文を載せていただいたとのことであった。 
2010.11.16