エッセイ     梓澤和幸

崔善愛(チェソンエ)さんのこと

  崔さんが敬愛してやまない作曲家ショパンとその音楽のことから始めたい。
  一九四〇年ナチス占領下にあったポーランドでショパンの音楽は禁じられた。一九四〇年はショパン生誕一三〇年にあたる。 ショパン生誕記念コンサートはワルシャワだけで一三〇ヶ所の個人宅で開かれていた、と崔さんはショパンの伝記で触れている (『ショパン──花束の中で隠された大砲』 岩波ジュニア文庫 一七〇頁)。見つかれば逮捕されて殺される恐れがあった。 覚悟を決めて、息を潜めながら耳傾ける音楽とは何なのか。それを作り出した作曲家の人生とは?
  ショパンはディアスポラ(離散の民)の一人だった。ロシアという大国によって支配されたポーランドの独立のため闘う青年たちの群像の中にショパンはいた。 民族独立運動の仲間から 「君は音楽で後世にこの民族のことを伝えてほしいのだ」 と伝えられて亡命したショパンは、 ポーランドを離れて二三日後に一一月ワルシャワ蜂起の報に接する。翌年、ロシアによるポーランド敗北、死者多数、ロシアによるワルシャワ再占領を知って悲しむ。 そして、「神よ。あなたもロシア人ですか。」 という言葉を残している(シュトットガルトの日記)。
  「革命」 というエチュードはこの時期に書かれた、と崔さんは述べている(前掲 『ショパン』)。 言葉を持たないピアノ音楽を通して、ショパンの魂を聴く者に伝えてくれる点で、崔さんは第一級の演奏家の一人である。 崔さんをしてかくあらしめているものはなにか。
  その源泉は崔さんが指紋押捺拒否をし、その故に再入国も得られず、特定永住者資格も奪われるという苦難の体験にあった、と私は信じている。
  指紋押捺とは何なのか。
  在日朝鮮人、在日韓国人は一九五二年四月二八日、サンフランシスコ平和条約締結の直前、法務省民事局長通達によって日本国籍を奪われた。 日本は韓国併合によって朝鮮半島の住民を強制的に日本国民とした。強制連行、経済上の困難によって朝鮮半島から多くの人々が日本に移住した。 一九四五年八月の終戦時には二〇〇万人になった。うち五〇万人以上の人々が日本に残った。 その歴史への反省も責任もとることもないまま、国籍は有無を言わさず剥奪された。 この日から外国人とされた在日朝鮮人、韓国人は外国人登録法によって、一四歳になった日以降三年に一度指紋押捺を強制されることになった。 それを拒否した人には、一年以下の懲役又は禁固もしくは二〇万円以下の刑事罰が法定刑として定められた。
  自分の意思と関係なく指紋を採られることは屈辱である。その感情と自らの尊厳を根拠として、人々は押捺拒否に立ち上がった。 第一号は韓宋碩(ハンジョンソク)さん、一九八〇年九月のことである。最大時には一万人を超える人々が指紋押捺を拒否した。
  崔さんの父親であり、著名な人権活動家であった崔昌華(チェチャンホァ)さんを父に、金貞女さんを母とする崔善愛さんの家族は、 このような拡がりの初期の段階に大きなきっかけを作った。
  家族の中で口火を切ったのは、崔善愛さんの妹崔善恵(チェソンヘ)さんである。法によると初めての指紋押捺は一四歳のときにやってくる。 善恵さんは、自ら 「指紋を押さない」 と宣言し、父上崔昌華さんと二人で記者会見まで行った。 ピアノ留学を考えていた崔善愛さんにはためらいがあったが、善恵さんの切実な行動に背中を押され、一九八一年一月、指紋押捺を拒否した。 兄の崔聖植(チェソンシク)さんもこの頃押捺拒否をしている(田中伸尚著 『行動する預言者 崔昌華』 岩波書店 二〇一四年)。
  崔さんは一九八六年、アメリカインディアナ大学にピアノの勉強のため留学。外国人は出国の際に再入国申請をし、法務大臣から許可を得るのだが、 指紋押捺拒否をした崔さんには制裁として再入国不許可という過剰な制裁が加えられた。さらに崔さんの特別永住の在留資格まで奪われた。
  再入国もだめ、在留資格も奪われたということになると、崔さんはふるさと日本に帰国できるかどうかさえおぼつかない。 法務大臣のこの不当な処分に、崔さんは抵抗した。裁判にして争い、最高裁まで闘った。しかし、覆せなかった。
  かかる不正義がなぜまかり通るのか。法務省と裁判所の理論は実に愚かである。その主張を紹介することだけで残りの紙幅にも足りない。 しかし、そこに棒のように貫いているものだけは記しておこう。それは日本の国籍を奪われし者たちよ。 この国に刃向かえば、居住すること、出入国することさえ国の意のままになるのだ、という権力の宣告である。
  もっとも辛い目にあった人間こそ、同じ経験をした人の悲しみ、痛み、憤りに共感できる。 崔さんは、若い女性に襲いかかる過酷な経験を通してディアスポラの民、ショパンの人生と音楽に遭遇したのだ。
  ショパンは一度故国を出てから、再びポーランドに戻ることはなかった。遺言に、「私の心臓はポーランドに埋めてほしい」 という言葉ほど、 切実なふるさとを思う心情があらわされた表現はない。作曲家のこの痛みと悲しみに、自らの体験を通して共感できる音楽家は稀であることは間違いない。
  もう一度、崔さんがショパンを語る言葉にふれ、ライブの演奏に接してみたい。 そのピアノとショパンの作り出した音楽を通して伝えられるショパンの、いや異民族に支配され、自立を渇望する人々の魂に共振してみよう。
  この文章を書きながらそういう思いが強く立ち上がってくる。