エッセイ     梓澤和幸

連載 ふるさとと戦争
弁護士 梓澤和幸

  最終回

  一九四三年(昭和一八年)、私の生まれた年に父幸三郎は赤紙を受けた。群馬県桐生市目抜き通りに開いた赤ちゃん洋品店(戦争で休業中)と住まいに、 三〇歳そこそこの妻、老母、私の兄誠一(三歳)、そしてお誕生日前の私を残して、千葉県佐倉の連隊に入営した。 招集されて兵営にいる真っ最中に、誠一は防火用水の汚れた水を飲んで、重い疫痢にかかってしまった。 零細商店に貯えは十分でなく、女手しか残されていない家庭に、近所の内科医は冷淡だった。 つてを頼んで遠くの医師に来てもらったときは手遅れで、兄は四歳のお誕生日を前に命を失った。 戦争に殺された。父はある夏、私の娘(父からすると孫)を連れた海水浴旅行の夕方、松林の中の氷屋さんで、「かわいそうなことをした」 と悲しんだ。 激しい悲しみであった。(詳しくは新婦人国分寺支部発行 「炎と飢えと」 44集)
  二〇一五年六月下旬、戦争法案って何だ、と世田谷に集まった学生二〇〇人に話した。 戦没美術学生の絵を展示する 「無言館」 の館主と一緒に壇にのぼった。長身で白髪のきれいなこの館主は、 戦後の経済の発展の中で、どれだけしゃにむに働いたか、どれだけそれが躍動的な日々だったか、ただひたすらにそれを語った。 しかしあるとき、ふと、これでいいのかと思いとどまり、 「絵を描きたい、生きたい」 と心の中で叫びながら作品を残して戦死した美術学徒たちの絵を、全国を歩いて集めた話をした。 「彼は、彼女は、生きたかったのです」 と飾らない言葉で結んだ。
  フロアの最前列で話を聞きながら、私はその人の名前が窪島誠一郎ということ、そしてこの人が、「梓澤さんと二歳違いです」 と何の脈略もなく叫ぶのを聞いた。
  父の激しい悲しみは、実は兄誠一が、「和幸。俺が生きていれば、俺はこの窪島さんのように生き、誰かのために、家族のために、 何かをできたかもしれないのだ」 「戦争が一人の子どもの命を喪うことは、そういうことなのだ」 と伝えられているようで、激しく打ちのめされた。 それを二〇〇人の若者たちとのトークの中で知らされたのだった。