エッセイ     梓澤和幸

ふるさと 桐生
弁護士 梓澤和幸

  生まれてから小学校六年の九月まで、私は群馬県桐生市で育った。四年から六年までのクラスの印象が強い。
  昭和小学校六年三組だった。幹事役の一人から、しきりにクラス会お誘いの電話がかかった。板東ことばというのだろう、どこかのんびりしていて、 土の匂いがする。
  「忙しいだろうけど、もうあんまり何回もできねえだろうから、来いよな」
  語尾の響きになんとも言えないやさしさがこもる。
  東北本線の小山駅で両毛線に乗り換えて一時間。一つひとつの駅と、その背景に広がる緑の多い情景が、「よく帰ってきた」と無言で語りかけてくるようだった。
  夕方、会場に集まったときの何よりの印象は、七〇歳を過ぎた女性たちの元気で生き生きとした言葉と表情だった。 パーマ屋さんを経営している女性、アパレルの有力店に勤め、月に一日は六本木、恵比寿に仕入れのために上京している人。 ボランティアで七〇歳以上の一人暮らしの高齢者に食事を作って届けている人、心に障碍のある人の支援施設の経営幹部をしている人、 病がちの夫の介護の時をおくっているがその日々に負けていない人など。男性陣も負けず劣らずだった。 ここでは使用言語は上州弁だけ。標準語は使用禁止だ。子どものころから使いなれたその言葉で夜遅くまで語り合った。 60年ぶりにあった男性もいた。不思議なことに全ての戸を取り払ったように安心して話せた。 短い時間に胸の奥底にたまったいま抱えている心配事を打ち明けあった。

  群馬県には、郷土を歌った 「上毛カルタ」が古くからあった。○い いかほ温泉、日本の名湯 ○ろ 労農船津伝二べえ。 ○す すそのは長し 赤城山。 ○わ 和算の大家関孝和。
  百人一首に似たふしをつけて、読み札すると、早い子は一文字だけで札をはらう。 このクラスは特別強く、三人一組のチームがクラスから予選を勝ち抜き、県全体で一番と三番をとった。
  担任の砂賀トメ先生の力の入れ方は情熱的だった。国語の時間になると、机を脇にどかして、体育館から畳をみんなで教室に運んだ。 その畳がカルタ取りの土俵になる。
  全員を三人ごとのチームに分けて対抗戦をやった。何回かそれを繰り返しているうちにスターのような早い取り手があらわれる。読み札が上手な子もいた。

  学校代表の予選の日が近づくと、日曜日には大きな敷地の中に別棟をもつ機屋(はたや)を経営している同級生の家に集まった。 その家のお母さんから心づくしのあんず、柿、お菓子が差し入れられる。それを食べながら夕方暗くなるまで練習した。
  砂賀先生は、一人ひとりの子どもの伸びるところをかなり深く把握していた。その見抜き方は成績の善し悪しとは、不思議に距離をとっていた。
  江ノ島、鎌倉への修学旅行で、鎌倉八幡宮の大銀杏の情景を俳句に読んだ女の子は、「あなたは力をもっている。 しっかりと勉強して力を伸ばしなさい」 と言われ、七〇をすぎた今まで、俳句の勉強を続け、NHKに出たりしている。 砂賀先生のあの言葉がなければ、今の私の俳句はないです、と話していた。
  その日の食事を三度きちんと食べられない、という子、雨の時は傘がなくて学校に来られないという子もいた。 先生の眼はそういう子たちの日々にしっかりと向けられていた。
  広い校庭のある学校のいちばん西側に、コンクリート造り三階建ての校舎があった。その建物より背の高いもみの木があって、 秋の陽がよく差す日には、その梢の向こうに高く青い空が見えた。みんなの白いシャツに日があたって輝いた。
  もみの木の下に、一階建ての用務員さんの部屋があって、あまり陽があたることなくひんやりとしていた。 六畳ほどの部屋があり、宿直の先生がそこに休む場所としても使われていた。
  ある日の昼、大きな声を出してクラスを統率している小柄な女の子、カヨちゃんが何かの用事でそこをたずねた。
  何人かの子どもがちょうどカレーライスを食べていた。
  カヨちゃんはすぐ事情を悟った。先生がお弁当をもってこられない子どもたちに何回もお昼を食べさせていたのだ。
  先生は、カヨちゃんを片隅に呼ぶと、じっとその眼をのぞき込んで微笑んだ。
  「いいかい。カヨちゃん。今日見たことは内緒だよ。誰にも言わないんだよ。お友だちにも、お父さんやお母さんにも……。いいね。ずうっと内緒だよ」
  小学校六年の女の子だったが、言葉のひびきが強いようにカヨちゃんの意思の力は強かった。誰にも言わなかった。この日のことは誰も知らなかった。
  そのことが明かされたのは、私たちが六〇歳を過ぎた頃のことだった。亡くなって二〇年になる先生のお墓参りのあと、お蕎麦屋さんでカヨちゃんが言った。
  「あのねえ、先生が亡くなって二〇年も経つから、もう言っちゃうけど、こういうことがあったんだよ」。カヨちゃんは告白した。
  お墓に案内してくださった先生のご長男は、もう七〇代半ばだった。眼の周りを赤くしてその話を聞いていた。
  思い出すと、砂賀先生は随分たくさんの場面で、人はこのように生きてこそ、もっとも人間的に生きることができる、と無言で教えていた。 人の見ていないところで善行をつくすこと、それを誇らないこと、間違った行いを見たときには、それを正す勇気をもつこと、助け合うこと。

  クラス会の次の日、ふるさとの街並みを一望できる水道山の頂上に登った。すうっと左から右にかけて季節の風が通り抜ける。 三方を山に囲まれた平地に密集してならぶ屋根、屋根に、秋の陽がさんさんと差し、その光がこちらの眼にまぶしく反射してきた。
  何か行事があるようだ。
  風に乗って地元に伝わる民謡、八木節の囃子が、リズムを刻んで流れてきた。
  横笛と太鼓と、かねが刻む囃子と囃子の間は何も聞こえない。聞こえないが、歌い手が張り上げているはずの高音の声と八木節の歌詞を、 私は暖かい思いで胸をひたしながら、小さな声でうたっていた。ちょいと出ました三角ヤローが……。国は上州、あの佐和郡いい。 音に聞こえた国定村のう……。
  農民の中に入って救貧活動をした侠客の生涯を、このうたは五〇番以上講談のように、浪曲のように、連綿とうたいつづけるのだった。
  遠くをみはるかすと、一つひとつの峰の名前はとても覚えきれない山、また山が連なっていた。 それは五、六才の幼い頃生家の二階から一心に見いっていた情景と全く変わっていなかった。