エッセイ     梓澤和幸

書評 『子どもの涙』 徐 京植 著(柏書房刊)


  元在日韓国人政治囚徐勝、徐俊植を兄に持つ末弟の思春期と青年期の読書回想録である。

  次のことばに著者の性格、心的傾向が鋭く次の短い一文にあらわれているようで胸をつかまれる思いがした。
  「子どもの頃にいやおうなく刻印されてしまった何ものかを背負ったまま、 人は多くの苦しみとわずかな喜びとに彩られた長い人生の時間を堪え忍ぶのである。 そして、人に人生を堪え忍ぶ力を与える源泉もまた、子どもの頃に体内深く埋め込まれた、 その何ものかにひそんでいるのだ」 (あとがき)

  性格と私は言ったのだが、それはすべてを表現できてない。 著者の感性に反映して来る在日朝鮮人の生活と民族の歴史がまず存在していた。 早熟な傷つきやすい少年はその現実を包み隠さずにまずみてしまう。それが眼に入ってしまう。 そういう育ち方をした人のように私には思えた。
  才能ある在日朝鮮人青年は道を閉ざされていた。弁護士、公務員、新聞記者、大企業などといった進路は確実に塞がれていた。
  その上、祖国に留学した次兄、三兄はフレームアップのスパイ事件の中心人物として、長期の投獄を強いられていたのである。
  地方都市のパチンコ店の経営見習い、麻雀荘のマスターのようなことをしたこともあった。 その方面にむかないとみずからいう著者にとって、それは鬱勃 (うつぼつ) とした日々だったに違いない。
  その中で出会った魯迅について彼はこう書く。
  人は希望があるから歩くのではない、人が歩く以上希望がないとは決まっていないだけなのだ。それこそが、「希望」 なのである、と。
  まずたしかなものをたたいてみる。もう一度それを疑ってみる。もう一度それを疑ってみて、 それがたしかなものであるときに一歩をすすめる。京植氏の兄たちへの救援のすすめ方はそのようなものであった。
  強大な力に抗うに、対抗する力量をもたない私たちにとって、こうした現実のみすえ方、 ペシミズムに極大に接近した楽観というものから私は多くを教えられる。
  いきなり結論に入ってしまったが、実はこの本はもっといろいろな彩りに満ちている。
  彩りとは、もう二度と再現することのない二人の兄、妹、母たちとすごした懐かしい家族の日々であり、 肥大化する自己認識、性、死の問題と直面する思春期の追憶である。 寺田寅彦の随筆集、吉川英治の三国志、太宰治の作品などとむきあう読書と、 その頃の生活の追憶の中から早熟でスポーツが苦手で、 研ぎすまされた自意識やアンバランスな自己愛をもてあます少年の自画像が描き出されて行く。
  この時期の著者で興味深いのは、異性との関係、それも日本人の同世代の少女たちとの交流である。
  著者はつねづね、冷戦体制と日朝の歴史が規定してしまう日本人、 とりわけ女性たちとのぎこちない関係という表現を用いるが、ここには、その成立ちが解き明かされているようだ。
  ある女子中学生の家に行ったとき、ぎっしりと古い文学全集がならぶ書棚に眼を奪われる。 みずからの家の環境とのあまりの違い。
  十二、三才の少年はそれをはげしくねたんだ。 「憧れと敵愾心とが激しく相克する、捉えどころのない感情である。 ひどく迷惑だったに違いないが、彼女はわたしにとってそのような思春期の激情の唯一の具体的な対象であった」
  このような少年の感情は、民族の出自にも確実にむすびついていた。 まわりにそれを隠そうとした今となっては恥ずかしい体験や、 屈託のないのびのびとした生活を送る同級生たちに、「この人たちには決して心を許すまい」 と、身を固くしてかまえていた 少年の孤独が描き出されている。
  1950年代から60年代に子どもであった世代には、本書によく引用される講談社や偕成社から出ていた子どものための名作全集、 伝記ものはなつかしい本だ。私もいまはもうなくなってしまった生家の二階の和室で、寝入ってしまった三つ下の弟の寝息や、 盛り場を歩く人々の足音を聞きながら、床の中で読んだ記憶を思いおこしながら、著者とともに子どもの頃の追想にふけった。
  「十五少年漂流記」、「ロビンソンクルーソー」、「小公子」、「宝島」、「鉄仮面」、「家族ロビンソン」、「ロビンフット」などなど。
  追憶もしかし著者にあっては個性的である。子ども時代は楽しいことばかりではなく子どもらしい、 子どもでなければ味あわぬつらさに満ちている、という。
  そして、ケストナーの 「子どもは時にはずい分悲しく不幸になるものだということがどうしてぜんぜんわからなくなってしまうのでしょう。 子どもの涙はおとなの涙より重いことだって、めずらしくありません」、ということばをひきながら子どもの涙がわかる者が、 おとなの涙もわかるのである、という。
  こうした指摘によって、天地が裂けてしまうような、子どもにとって耐えがたい両親のいさかいや、 性への眼ざめなどといった子どもの精神世界のひろがり、もっとすすめていうなら、 人間の複雑な性格や感情への作者の視線と暖かい洞察を感ずるのだ。
  著者は、
  「魯迅の幻燈事件」 は、大なり小なり、わたし自身の経験でもあったという。 教室での幻燈に映し出された、日本軍に斬首される同胞の姿を見せつけられ、 それに野卑な喝采の声をあげる日本人学生たちのただ中で、 若い中国人魯迅はひとり、どんな屈辱と悲憤を呑みくだしていたのだろうか。 そういう状況、そういう悲憤、さらに、侵略戦争に勝ち誇る多くの日本人たちへの嫌悪と拒絶の感情、 それらに対する洞察をしっかりと踏まえて読むならば、 「藤野先生」 はたんなる美談や教訓話に終わることはできないはずだ。 そうしてこそ、それでもなお藤野先生の人格を認め尊敬した魯迅という人間の器の大きさを知ることができ、 人と人との真の交わりの得難さに思いをいたすことも可能になるのである」。という。
  ここに著者の日本人との人間関係についての主張が凝縮されているように思えた。 それは、朝鮮民族だけでなく、広くアジアと日本との真の友情を追求しようとする者にとって、深い示唆に富むことばと思えた。

  著者は1960年代を描きたかったという。
  60年代を描こうとする場合一般に大状況、そこでぶつかりあっていたイデオロギーそのもの──社会主義、 平和、反戦、ベトナム、日韓条約などといった──を描きがちだが、 著者は、この時代を成立させていたもっと生の人間の姿を思春期時代にまでさかのぼって明らかにしようとした。 そしてそれはある程度成功した。
  ある程度、といったのは、日本人の側から同じような仕事がなされなければならないということを意味する。
  ひきつづく1970年代、80年代、とりわけ、ソ連、東欧の社会主義と、 日本の侵略への反省の運動が興隆しはじめる後の時代への連続を明らかにするために、 日本人からもこの時代を成立させた精神が書かれなければならないのだと思う。