エッセイ     梓澤和幸

物真似芸(2)


  物真似芸は古くから寄席にいろもの (いろものったってわいせつじゃあござんせん。 落語以外のだしもののこと:筆者注) としてあった。江戸屋猫八の動物のまねなんていうのがそうである。 この古き伝統を、現代のテレビ時代によみがえらせた功績はコロッケであろう。 美川憲一のまねをしたところ、これがうけて美川は完全に復活してしまった。 こう言う場合、コピーの方が3倍誇張とデフォルメがはいっているから、オリジナルより有名になってしまう。
  もうしわけないことに、ボスのコピーはオリジナルよりずっと有名になってしまった。
  10人以上仲間が集まると必ずこの演目が入る。
  アルコールも入らないのに、芸を強制する先輩まで出てくるしまつである。
  かなりまじめな泊まり込み勉強会があった。夜は2時か3時頃までけんけんがくがくの討論をする。 もちろんビールも入る。お互いに取り組んでいる事件の紹介や失敗談などもでて楽しい一時であった。 普段ふれることのない大先輩の青春をかけた大事件の取り組みなどをきける楽しい一時である。 今回は大丈夫だった。やらされずにすんだ、とほっと安堵の息をつぎ安らかなる眠りについたおれであった。
  なぜ安堵かともうしますと、お笑い芸って、らくなようにみえて結構大変なのである。
  なあぜか。そりゃあああた。あたらない場合、つまり笑いをとれない場合のしらけかたがこわいからである。
  寄席にゆくと、前座の芸人が必至になればなるほど客席はしいんとしてしまい、 「ふ」 と苦笑のようなものがもれて、芸人が敗退していく場面があるが、あれがこわいんである。で安堵の朝食であった。
  ところが食べおわった食器類がまだかたづけられない内から、10年先輩の渡辺弁護士から声がかかった。 例の事件で、誰もがいやがる国選事件をひきうけてから、いっそう尊敬をあつめるようになったあの猛者である。 この人の特徴は正しさが、あるいは真実がこの世界には存在していて、 しかもこの人の頭脳を濾過するとそれが絶対的真実に転化するという、独度の文体をもっているところにあった。
  この人がこうといいだしたらそれをときふせるのは大変である。君は別の真実を発見してこなければ説得できないのである。
  それがでしゅよう (岸信介風に) それがだなあ。ああた。 朝飯前じゃなかった、朝飯後に、しかも一部はまだ中年風にようじかなんかせせっているうちに、 「君がボスの物真似をやることは この歴史の瞬間において、人々のためにつくそうとする弁護士のとるべき唯一の正しい行動である」 と主張しはじめたわけよ。
  しかもでしゅよう。しかも弁護士がこれだけそろって弱きもの、 声をもたざるもののために身を挺して弁護するために、どうしようかと半分徹夜で議論しておいてだよきみい。 (岸しんすけふうに) だれもおれを弁護して、いやそれはいくらなんでも朝飯後にボスの真似はひどい。 ここは執行猶予ということにしてみんなで手帳を出して次の研究会をいれ、 そこでかれに研究をふかめてもらい、 かつまたビールのいっぱいくらいは提供してやろうじゃないか的な弁論をふるってくれてもいいのであるが、 この機会をのがすと忙しい俺達が梓澤の物真似芸にふれることはないのではないかといった危惧、 真実にもとずき渡辺弁護士に対抗するのは、これは朝飯直後のワークとしてはおもすぎるてな思い、 それになんといってもここで前から噂になっているボスの物真似芸を聞いちゃいたい、 それを後世にかたりつたえてゆきたい、というような正直な思いがみんなの胸中を去来するのであった。
  そこでおれはむだな抵抗はやめてはじめることにした。みんなが笑いころげてくれたか明確な記憶はない。 変わった奴もいるのよのう、という印象をのこしたかもしれない。皆が食べおわったアジの開き、卵のから、 ゆのみじゃわん、ちいさな食卓などの光景がまざまざとうかぶ。
  渡辺先輩のでっかい顔写真をオウム関連記事で見ると、あの前代未聞朝食後物真似芸の一幕を思い起こすのである。
  弁護士は法律の専門家である。毎日の事件活動だけでなく、人権にかかわる新しい法律の制定や改正に注意し、 人々に警鐘をならすこともやる。日弁連が破壊活動防止法のオウムへの適用について決議をあげたがこれもそのひとつだ。 人々にわかりやすく理解していただくために、演劇にしたり模擬法廷を制作したりする。 けっこう弁護士が自分で脚本をつくったり、俳優に起用されたりする。 そんなとき官僚や政府側の答弁を代行する 「悪役」 が必要である。 悪役といったって、むかし、ほら時代劇で目明かしがでてきて、きれいな娘さんがいたりすると 「はあー。ほ、ほゆるしを。 ほふるしくださいませ。あれーーー」 と娘がにげる。
  目明かしが 「ひい、ひいひいいいじゃないか」 と帯をつかんで、なおも娘が逃げようとすると、目明かし帯のはしをふむ、 娘はくるくると体をころがしてどんどん帯がほどけてゆく、そこに正義の味方中村錦之助あらわれ目明かしの手を逆手に取ると、 何をしていず、 (何をしている) ゆずせぬ。 (許せぬ) やめずか (やめるか) 目明かし 「いててて、はなしてくれい」 、はい、ざあんねんでしたでちょん、と言う東映の場面があって、 これもおれの物真似レパートリーにはいっているが、こう言う単純な悪役じゃあだめなんである。
  たとえば小選挙区制、住専にしてからがそうなのであるが、それぞれ官僚や与党、 政府の側からするとそれなりの言い分がある。そこで本当はその人達にでてきてもらえば論戦も深まってよいのであるが、 無論でてきてはくださらない。
  そこで悪役の登場である。
  よく言い分を研究して脚本を練り上げ、当日は人物になりきる。
  小選挙区制の集会だった。
  業界にでまわった物真似芸のイメージがあったのか、 推進側の官僚と与党の代弁者の役を、俺より3年先輩の弁護士と俺が担当することになった。 つまり悪役である。悪役は面白くかつあぶらっこく、リアリティーがなければならぬ。
  おれとしては3年先輩氏の起用は意外であった。 というのは、この先輩は生真面目でしちっかたく、若干とっつきにくい印象があったからであった。
  200人の聴衆を前に先輩の演技が始まると、それは完全に聴衆を魅了した。
  実に甲高い声で高級官僚のエリート的雰囲気をだす。おれは一瞬圧倒された。しかしかえって闘志もでてきたというものだ。
  一瞬ボスの英雄を脳裏にうかべたおれは、聴衆にボスの横顔をみせ、ふん、とあげ調子の吐息のようなものをもらすと、 田中角栄とボスが合体してしまったような人物を想像して、高級官僚の演技に挑戦したのであった。
  と、いうわけでえええ、うん。せんきょおおくのかあいかあくわああ。 ふん。 (このふんは挙げ調子) どおお、 (浄瑠璃のようにひきしぼり) してもひいいつようなこおととをう、ごおりかいい。 ふん。いただきたいと思うわけで (ときれて、4度、いやオクターブさげて) ありいます。 ふん (とあげて) なあぜならばあ、たあだいまあ、おこなあわれえておりまあすところの中、 (意味なくきれて繰り返す。 低くでてから3度挙げて) ちゅうせんえんきょおく制度。せいどお (ふたたび浄瑠璃風にひきしぼって) ではあ。 政治の、せいじのおおう、かあいかくはでえきなあいとかあくしんされるからであり、 (としゃくれあがった横顔をみせて 4度下げて) まあす。
  おれは演技に酔っていた。今日はのってるぞ、うんいけるいける。くっくという客席のしのびわらいももれてくる。 横の高級官僚も押したぞ、庶民派の勝利か。おれはボスの右手が上むくと左手が下向く。 左手が上むくと右手がしたむくという奇術師のような身振りをくりかえした。
  とそのときであった。
  物凄い憤怒にみちた表情で会場の真ん中にたちあがった40代半ばの男性が二人、 舞台を指さし 「なにいってんだ。ざけんじゃない」、 と糾弾しはじめた。 それは本気で言ってる様子でなにやら恐怖さえ感じさせるほどの迫力にみちていた。
  小選挙区制推進論者がきているとおもったらしいのである。
  高級官僚を演じる先輩とその場をどうやってしのいだかはっきりしないのだが、 ううむここまでくると──といつものいけない精進精進の気持ちがでてきてしまう俺であった。

    (この文章は1997年に執筆されたものです)