エッセイ     梓澤和幸

正義感のレベル


  昼下がりの中央線は、ちょっと混んでいた。
  高齢のご婦人が荷物をもち、疲れたようすでたっていた。
  席は若者たちでうまっていた。
  誰もたたない。

  神田についた。浅草に行くためここでおりて、銀座線に乗り換える。
  今日は韓国の弁護士さんたちを下町見物にご案内する日だ。
  階段をおりるところで、光州からやってきた30台半ばの長身の弁護士が真剣な表情で話しかけてきた。

  「若い人たちがお年寄りに席を譲らない。誰も注意しませんでしたね。韓国では考えられない情景ですが、いいのですか。 日本ではあれで通るのですか」
  いま思うと、あのことばは何もいわなかった私にも向けられていたのかもしれない。

  ワールドカップサッカーの場面でも考えさせられることがあった。
  韓国チームが三位決定戦でトルコチームへの敗北がきまった瞬間のことだ。一瞬の、ほんの一瞬の沈黙があった。
  そのあと、韓国応援団の席からトルコチームへの賞賛の拍手がおこった。

  もうひとつ、個人的な見聞を付け加えておきたい。
  米軍の装甲車に中学生がひき殺されたことに抗議するデモのことである。
  10万人というが本当にさまざまの人がきていたという。
  家族連れも目立った。
  大学教授が小学生の女の子が一人できているのを見て尋ねた。
  「どうやってこのデモのことを知ったの」
  「インターネットチェックをしてきました」
  教授は続けた。 「どんな気持ちでこのデモに来たの」
  「なくなった二人の中学生を追悼するためです」

  韓国の弁護士たちと交流をはじめてから10年ほどになる。
  この間に韓国を訪ねて見聞したことはさまざまだ。
  ひとついえること。それは苦難の歴史が形作ってきた、一人ひとりの普通の人々の公共性の高さ、である。 正義感のレベルが高いともいえようか。
  ノムヒョン政権が誕生したときそのことを思った。
  1980年代に学生運動を経験し、30代で60年代生まれ。3、8、6世代が中心になったといわれた。
  だが僕のみるところ、これはあらゆる意味で植民地時代から、李承晩、朴正記、チョン・ドファン、 と暗黒と苦難の歴史をたどった民衆運動の、というより民衆の生のこれは貴重な帰結だったのではないかと。
  ひとつひとつの家族の中で語り継がれ、継承されてきた価値の継承の帰結だったのではないか。

  この国ではどうか。
  高潔な人々の人生は語り継がれ、賞賛され、ひそかに精神的な遺産として相続されてきたか。
  バブル以降の10年を、自らをも含めて振り返るがそうはいえないのではないか。

  裁判所や警察で、訴訟の関係者の訴訟行動への評価を見聞するが、この辺のところが緩んでいるような気がしてならない。 下手をするとこういうところから、日本は 「国力」 を失っていくのかもしれないのである。
  ひとつひとつの事件は、トリビアル (些事) に見えるかもしれないが、 意外なところで私たちの抱える小宇宙は 「大事」 に結びついているのかもしれない。