ぼくの中学校時代は、水戸と浦和だった。中学2年の時、父が水戸から浦和に転勤となる。
東京の近くにひっこすというのは、何となくうれしく、はじめて浦和の中学に転校して行った日のことはいまでも記憶している。
京浜東北線の北浦和駅と、与野駅の中間で、少し、西側に寄ったところにその中学校はあった。
常盤中学だ。校舎の東側には、大きな陸上グラウンドがあり、北は、新潟鉄工の大きな工場があった。
2年の2学期つまり9月の初旬、私ははじめて中学に行った。
職員室の隣の校長室で担任の先生にひきあわされた。今思うと、20代後半だったのかもしれない。
その先生は、シャイでぼくの目をまっすぐ見ないで、視線をそらしながら話す。
水戸の中学から持ってきた書類に成績表でも入っているのだろうか。皮肉な笑いをうかべては、
「ふん、英語と社会は得意のようだね。まあ、2年というのは大事な時期だからがんばることだね」
などといっては、チラッとぼくの表情をみる。田舎の学校から少し胸をふくらませて、
のぼって来たぼくの第1日目の期待は少しはずれた。
こういうとき付き添っていく役の父が、昔の商人風の腰の低さで、何か言っているのを聞きながら、
ぼくは、窓の外の学生たちを眼で追ったりしていた。
しかし、クラスに行って、すごしてみると、期待にたがわずそこは、都会だった。
まずことばが違う。桐生の板東ことばとも、水戸の独特のなまりとも違う。
転校してきた子ども、というのは、何か異文化の風を背負ってきたようにみえるのか、
好奇心に満ちた眼をして、いろいろな子が話しかけてくる。
強い印象を持たされた同級生が何人かいた。S君は、東京のある私立から転校して来たばかりだった。
1年年長だ。体が大きく、腕力もつよそうだ。
その精神的世界がとても大人っぽく、とくに女性のことになると、とても中学生には見えないわいせつな表情をする。
しかし、わい談らしいことは何もいわなかった。
学校のそばに家があり、帰りに誘われてよく寄った。大きな家で裕福そうだったが、両親の影がない。
彼はサッカーの選手だった。その家で遊んでいると当時名門だった、教育大を卒業した、高校の教師が顔を出したりした。
監督役だったらしい。1963年頃、S君がぼくの毎日が学生運動だった頃、神田の立ちそば屋の店員をやっているのを見かけた。
そこは、何となく、ヤクザの経営しているような店で、お互いにチラッと視線も合い表情もあったのだが、
そうしてはいけないような気がして声をかけられなかった。
もう1人ぼくに近寄ってきたのは、G君だった。
ガッシリした体で、柔道が強かった。内またが得意で、練習中にきれいにきめたのをみたこともある。
ぼくはG君の紹介で柔道部に入れてもらった。
G君は初段になっていたのか、色の違った帯をしていた。
その年の秋のことだ。G君と一緒に私の家で勉強することになった。
2学期の中間テストの準備だったように思う。科目は英語か国語だ。
父が経営に参加していた洋品のチェーンストアーの2階が、私たち家族と住み込みの店員さんたちのすまいだった。
この店のある建物は、昔料亭だったらしく、所々に丸窓があり、小さくしきられた独立の部屋がたくさんあった。
真ん中に経理用事務員さんが2名ほどいる部屋があり、客間とか応接用に使われていた。
ぼくたちが座卓にむかって2時間ほど勉強していると、いつも店に出ている母が、和菓子とお茶を運んできてくれる。
「ここに置いておくからね。いつでもいいときに食べて……」
と声をかけて、母がその部屋から去ったときだ。
G君が、突然ぼくに言った。
「梓澤はいいなあ。やさしいお母さんがいて……」
ちょっと意外なほどの真剣な声の響きに、ぼくは顔をみかえしてしまった。
するとG君は丈夫で強そうな顔を悲しそうにゆがませている。ぼくは何とも言いようもなく机の上にあるノートに視線をおとしてしまった。
「うちはなあ、まま母なんだよ」
その日G君は、自分の洗濯物をたくさん持ってきて、うちの店員さんたちが使っている洗濯機で洗濯をすませてかえっていった。
自分の身のまわりのことは自分でやらざるを得ない状況だったのかも知れない。
G君のことはその後あまり聞かない。
しかしあまり幸せにくらしていない、といううわさだけが耳に入る。
ぼくが島田先生のとこを知ったのは3年になってからだ。
社会科の担当だった。夏が近づいてくるとワイシャツのそでを半まくりにして、教室の中をきびきびと動きまわってしゃべる。
27〜8歳だっかもしれない。
いま思っても不思議なのだが、中学生3年のぼくたちにけっこうむずかしい内容のことをわかりやすく話してくれた。
ドイツ観念論哲学の話、とくにフィヒテの 「ドイツ国民に告ぐ」 の話をしてくれたのをおぼえている。
「国をうれえたフィヒテは、青年、とくに学生に夢を託した。青年たちこそはドイツを救うと思ったのだ。
ドイツ国民に告ぐという書にはその熱情があふれそうだ。君たちもいつかドイツ哲学を学ぶといい。
旧制高校時代の高校生たちは、特権意識みたいなものもあって問題なんだけれど、
自分の身をどうするというのでなく社会を憂う、そのためにどう生きるかということを真剣に論じあったのだ」
というようなことを情熱的に語った。とくに先生は、何か大切なひらめきを話すときにはずかしいのだろうか、
顔を真っ赤にして一気にしゃべるくせがあった。
ある日のことだ。社会科の授業の時間始業のベルが鳴ったのでぼくたちは待っていた。その間静まりかえって自習していた。
黒板の側のドアをがらがらとあけて先生が入ってくる。島田先生の授業は何となく楽しい時間だ。
今日も先生の面白い話が聞けるかもしれない。
「静かですね」 先生は出席簿を開きながら言った。
同級生たちの中にも先生を慕っている者が多かった。先生がほめたのだと思って、ぼくたちはうれしかった。
「静かすぎるし、まだ14〜5歳の君たちがこんなに静かでいいのか。
おさえきれないほどのエネルギーにあふれているはずじゃないのか君たちの年齢は……」
はずかしそうに顔を朱にそめながら先生は、一気に言った。しかしはげしいことばを一通り吐くと、声の調子をおとして、
「でも君たちが悪いんじゃないからな。君たちを責めても仕方がない。
静かにして待ってろ、っといっているのは、ぼくたち教師だから……」 と自分に言い聞かせるように言って授業に入っていった。
何か計算があって言ったことではないのだろう。はげしい感情が、思わず言わせてしまったのかもしれない。
しかし、受験勉強にむけて走りに走っているぼくたちに何か大きな衝撃を与えるできごとだった。
浦和市街のほぼ真ん中、中山道と県庁の中間あたりに、玉蔵院というお寺があった。
広い境内では、夏ラジオ体操などで集まったりしたこともある。
あるとき私は、二つ下の弟と一緒に玉蔵院に遊びに行っていた。
デモ行進の出発前だったのか、それとも解散のときの集会なのか、学校の先生方の組合の集まりだったようだ。
2〜300人の学校の先生風の人達のかたまりがあった。
石川達三の 「人間の壁」 に、このころの教師たちの描写がある。
疲れて、お金がなさそうで大変な生活をしている人達という印象だ。
やじ馬のような気持ちで、ぼくと弟はそばで見ていた。
するとその一角で、島田先生が、大きな赤い旗をふっていた。先生は、身長があまり高くなかった。
長い旗ざおと大きな旗に先生はふりまわされそうになりながら、口をきっと結んで旗をふっている。
はっきりした記憶がないのだがぼくは思わず、
「島田先生」 と声をかけたような気がする。
「おうっ」 と答えた先生は、その瞬間、またはずかしそうに顔を赤くするのだった。
ぼくが学生の頃か、それとも司法修習生の頃だったかもしれない。
先生は、校長とけんかして、学校をやめてしまった、と聞いた。
そればかりか教師の資格も捨ててしまい、鉛管工になった、と聞いた。
ぼくは、そのプロセスをいろいろに想像したが、本当のことはよくわからなかった。
弁護士になって3、4年目頃か、その日は浦和の実家に泊まるつもりがあって、駅におりたった。
東口におりて駅前でバスを待っていると、早足に通り過ぎて行く人たちの間に先生の姿があった。
ぼくは声をかけた。
「おう、梓澤君か。車があるからのって行けよ」
というわけで、実家まで乗せてもらう。
10分ほどの道のりの中で、少し話をした。10年以上も会わなかったから、ポツリ、ポツリという話し方だった。
「ああ、先生やめて、鉛管工やってる話、うん、話せば時間をかけて話しなきゃいけないことがたくさんある。
でもね。やめたこと (教師を) は後悔していませんよ」
感情的になって、何もかもほっぽり出してしまい、いまは酒にでもひたっているのではないか、
とひそかに思ってたぼくは少し安心した。
「先生は教科を教えるだけでなく、ぼくたちの生き方というところまで気を配って下さっていましたね。
ぼくもずいぶん勉強させてもらいました。」
「いやあ、ぼくたちのケアがなければ、やっていけない環境の子どもたちがたくさんいましたからね。
そういわれるとはずかしいです。十分にはやれませんでしたから……」
S君やG君たちのことを島田先生は思い浮かべていたのだろうか。
いまのように豊かさの中の貧困ではなく、貧困の中の貧困が問題だった。先生の視線はその子たちにそそがれていたのだろう。
それは先生にとってはるか昔の追憶を語るというのではなく、先生のいまを語っているような生き生きとした話し方だった。
話がはずんで来る頃、実家の門のところに着いた。
「いかがですか、お茶でも」
ぼくは、もっとゆっくりお話しをしたくて誘ったのだが、
「今日は帰るよ。じゃあ元気で」
口もとはほとんどほころばさず、眼だけが笑う独特な表情で、ぼくの方を一瞬見ると先生は帰っていった。
(この文章は1993年に執筆されたものです。)

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