エッセイ     梓澤和幸

「和解技術論」を読んでみる


  この著者は同期 (23期) で夏研の帰りに3人の研修生がつれだって私的旅行にご一緒した仲間です。
  赤倉から直江津に下り、商人宿にとまって盆踊りを見物したりしました。3人ともまだ20代でした。 お互い初対面だったのですが何となく呼吸があい楽しい旅行となりました。
  解散の前のひととき、草野君の実家でお母さんの手料理を楽しませてもらいました。 割烹着姿のお母さんの姿、テーブル一杯にならんだお料理、 なかでもはんぺんをのりにくるんだ、から揚げの味をなつかしく思い出します。
  このとき彼が大変な読書家であることを知りました。 アンナ・カレーニナ、戦争と平和、夜明け前、の各場面がそらんずるように出てくるのです。 目が何とも人なつこく人間好きな面白い奴と思いました。 (不思議なことにその後この3人はまったくつきあいがありませんでしたが…)
  「和解技術論」 には、こうしたかれの真骨頂があらわれているように思いました。
  例えば説得技術という項があります。ここのある節に 「とことん追いつめず逃げ道を残しておく」 とあります。 「当事者が嘘をついていることがわかっても、あなたは嘘つきだなどと言ってはなりません」 というあたり、 夫婦喧嘩はもちろんあらゆる人間関係に応用の効くことですね。 「自分が当事者の身になったつもりで考えてみよ」 「現地へ行って考えること」 「誠意をもって接すること」 など、 含蓄に満ちた言葉と経験がならんでいます。
  「当事者に誠意をもって接するために自分なりのことばで自分に言い聞かせてみるのも効果的です (43ページ)」 と、 自らへの言い聞かせ文句を紹介している箇所などは、実に面白いと思います。
  現実の和解の場面を思いおこしながら読んでみると、 裁判官が一人の人間としていろいろな苦労を重ねながら仕事をしているんだなと思ったりするのです。
  和解案の作り方という項目には、単純な心証開示型でもなく足して2で割る型でもない、第3の道のようなものを提示しています。 その工夫の底には紛争は人間が起こしたことだから、必ず解決出来るはずだという明るさのようなものが漂っています。
  最後に彼自身のまとめのことばを引用してみます。
  「和解というのは紛争解決の一局面ですがそれは人間と人間との間におこるもので、 それを解決する基本は、人間というものを自分自身も人間である私がどう考えるかだなということです。 …現実のひとりの自分をながめますと、紛争解決以外にも、裁判所の他の仕事、職場内外の関係、家庭、 親族関係などでいろいろの行動をしていますが、そこにはすべてに通ずる人間としての基本原理があるように感じます」 こうして彼はみずからこの本を人間学、私なりの表現でいえば、文学として法律家以外のかたがたにも自薦しています。
  (和解技術論 ── 草野芳朗 著 信山社刊 2000円)

     (この文章は1996年5月に執筆されたものです。)