言論統制  梓澤和幸


市民社会の危機に本格的な取り組みを
   ──急がれる現場取材の理論化と記者訓練
〈新聞研究2006年2月号〉

  二〇〇五年四月一日、個人情報保護法施行から八ヶ月たった。国会で成立するまでの批判や危惧以上に、法のもつ影響は深い。

  また二〇〇五年一二月二七日、犯罪被害者基本計画が閣議了解された。 その中にもられた犯罪発生時の警察発表で、被害者の実名を出すか否かを警察の判断に委ねる、との内容をめぐって、論議が沸騰した。

  筆者はいずれの問題も、情報の自由な流通にとって、深い意味をもった命題と考える。
  弁護士としての実務体験、読者、視聴者としての体験、報道された事例などをもとに、個人情報保護、 被害者の匿名発表という二つのテーマが、今、この時代の中でどんな問題を投げかけているのかについて、論じてみたい。

  〈個人情報保護法施行がもたらしたもの〉
  法の施行が明らかにしたもの、それは、民間の萎縮である。法は、 個人情報の取扱いに問題がある場合に行政機関(主務大臣)の介入により、これをただす仕組みをとっている。

  行政から何かを指摘され、企業、団体、個人の信用が低下することを恐れ、情報の流通を萎縮させる自主規制の雪崩が起こっている。

  その結果、集会、結社、学問などの市民的自由に新たな危機を生じている。 メディアの取材の自由への規制はその中で生じていることに目を向けるべきだと思う。

  筆者は個人のホームページを主宰しているが、そこに掲載してあるアドレスに、「君は、あの梓澤君ですか」 というメールが入って来た。 間違っていれば失礼、しかしめずらしい苗字だからきっと君だろうと思って、という文章がつづいていた。木造の校舎、担任の先生、 びりに近かったマラソン会場の湖の光景が浮かんで、すぐに返事を書く。 同級のM君は、五〇年目に思い立って同窓の連絡名簿にとりかかり、二〇〇五年五月、ようやく同窓会にこぎつけた。二年を要した。

  苦労話を聞く。今さら、という同窓生のクールな反応に加え、一番の、そして初めの障害は学校にある学籍名簿の開示だった。 個人情報保護法を理由にした学校の消極的な反応である。ねばり強い交渉の末、ようやく卒業生の名簿を手にした。 端正な筆跡のペン字の名簿だった。

  四人の今なお健在な先生と教え子百人が五〇年ぶりの再会を果した。癌を乗り越えた女性、九死に一生を得た大型漁船の船長の話、 八〇歳、九〇歳の高齢でなお教え子たちに深い励ましを与える先生の話は、深く心をうった。

  この再会は、個人情報保護法の壁を乗り越えるM君の努力がなければ実現できなかったのである。

  クラス連絡網の表に、所属グループ六人の名前しか載せない例 (横浜市公立中学)、 連絡網をやめてしまった例 (金沢市の中学校の三割)、緊急連絡網をやめ業者に委託してしまった例 (奈良県生駒市生駒小学校)、 卒業アルバムに名前や住所を載せる学校は二割ほど (関西地域の印刷会社) (日経〇五・一二・一九朝刊二二面 「顔なき社会」 上)、 など地域社会の核となる学校をめぐる事例が多いことは一つの特徴である。

  公害被害者の側に立つ弁護士の友人から聞いたこんな事例もある。

  ある施設の周辺に類似の疾病が多発していること、 種々の要因から施設の運行と疾病との因果関係があるとの根拠の下に訴訟を起こした。 訴訟の途中で疫学的鑑定が必要となり、研究者を訪問して鑑定を依頼しようとした。

  ところが、施設周辺の住民の世帯構成、年齢を前提としなければならず、統計法、 個人情報保護法による主務大臣の許可が得られそうもないので、鑑定不能として断られたという。

  JR福知山線事故のある遺族は、遺族会結成のため、JR西日本本社に遺族の連絡先一覧の提供を求めたが 、個人情報保護法を盾に断られた (筆者はコメントを求めるテレビ局からこの事実を聞いた)。

  JR福知山線事故では、肉親の安否情報について問い合わせを受けた現地医療機関が、 法を盾に回答を拒否したとの事例も報告されている (二〇〇五年九月三〇日共同配信)。

  筆者はある自治体で委嘱を受ける人権擁護委員であり、年に一度、中規模の人権のつどいを開く。 ハンセン、冤罪、子ども、犯罪被害者などの人権侵害の被害当事者をお招きして、八〇〜三五〇人ほどの参加者でにぎわう。 自治体職員の人たちと協同の取り組みだが、出席者のうち希望する人だけ参加者名簿をとろうという提案をして、 ちょっとした議論になった。個人情報保護条例施行以降、そのような名簿はとらないのだという。 集会の参加を少しずつ積み上げていこうとするとき、大事なことなのだが、実現しなかった。

  個人情報保護、という法思想が、どこかバランスを欠いて一般市民の内面に浸透しつつある。

  メディアの困難
  報道機関は個人情報保護法五〇条で適用除外となったが、予想外の困難にあたっているようだ。
  二〇〇五年七月に投・開票が行われた奈良市議選の立候補予定者説明会に六十人が出席した。 しかし市選管が報道資料として出した名簿は十五人について何らかの項目が空欄になっていた。
  選管は 「本人が公開を希望しない項目は空白にした。」 と回答した、という。

  愛知県高浜市長選では、記者が候補者の一人の生年月日を市選管に確認したところ、「個人情報なので」 と回答を拒否された、という。 「立候補者は公人ではないか」 と食い下がっても、投・開票日の時の年齢しか教えてもらえなかった、という (二〇〇五年一〇月一四日  熊本日日新聞朝刊、九月二八日共同配信)。

  公職選挙の候補者という公共性の高い人物について、このような情報管理が進んでいることの意味は大きい。

  〈公務員の懲戒処分に関する発表〉
  佐賀県神埼郡三田川町の陸上自衛隊目達原駐屯地では、 飲酒運転で検挙された自衛隊員を〇五年八月二六日停職十五日の懲戒処分にしたと発表した。 しかし、事案の内容、検挙の時期、隊員の階級等は発表されなかった。個人情報保護の観点が拒否の理由だった、 という (二〇〇五年八月二七日佐賀新聞)。

  目達原駐屯地広報室、西部方面総監部広報室でも同様の対応だった。防衛庁人事第一課への電話取材でようやく、 階級、年齢、検挙の時期などの取材に応じてもらえた。(〇五・八・二七 佐賀新聞、〇五・一〇・四 大阪日日新聞、 〇五九月二八日共同通信配信) 秋田県では、〇五年八月にいったん職員の懲戒処分について年齢と性別を非公表とする方針とした。 九月に職員の特定につながらない範囲との条件付きで公表すると転換したが、 所属の課や職名は非公開にするとしている (大阪日日新聞 〇五年一〇月四日、〇五年九月二八日共同配信)。

  個人情報保護が過重になって、報道の自由など他の市民的自由を制限することは、 法の明文規定 (三八条、五〇条) に明らかに反する。

  メディアは、かかる体験をしたときに、記事にするくらいでは足りないと思う。
  弁護士会、市民団体にアピールして行動を起こすべきではないか。
 
  犯罪被害者匿名発表問題
  政府は二〇〇五年四月に施行された犯罪被害者基本法八条に基づく犯罪被害者等基本計画を、〇五年一二月二七日閣議決定した。 警察、弁護士、犯罪被害者、専門家らで構成する犯罪被害者基本計画検討会の基本計画骨子案、 基本計画案の議論を経て定められた基本計画である。

  この基本計画は、犯罪被害者、遺族支援のため、@損害回復と経済的支援、A精神的身体的被害の回復と防止、 B犯罪被害者の刑事手続への関与、拡充などの総合施策が二五六項目盛り込まれている。

  それは、日本で遅れていた犯罪被害者支援の施策を実施するものとして、犯罪被害者、支援のNGO、精神科医、識者、警察、 日弁連など、関係する人々の努力の到達といってよい側面を含むものであった。

  ところでこの基本計画については、骨子案、基本計画案の段階から、犯罪被害者の安全確保、二次被害の防止のため、 「警察による被害者の氏名の発表について、実名とするか匿名とするかは個別具体的な事件ごとに適切な発表となるよう配慮する」 との項目があり、日本新聞協会、日本雑誌協会などメディア界から、警察による情報コントロールを招くとして強い批判があった。 しかし、一二月二七日閣議が採択した基本計画は、同計画骨子、計画案の内容を維持するものであった。

  被害者の氏名発表、実名か匿名かの問題をめぐる経過をみていて思う。個人情報保護法、人権擁護法案をめぐる論議ほどに、 メディア内外の運動や議論、そしてそれらをめぐる報道は、いま一つの盛り上がりに欠けることを、率直に表明せざるを得ない。

  それは何故なのか。それを検討してみることは、今後のメディア界にとって意味のあることと思われる。問題を提起してみたい。

  問題その1 新しい人権とメディア

  犯罪被害者の人権問題は何といっても新しい人権問題である。それは発見された人権問題である。 一七八九年人及び市民の権利宣言 (フランス人権宣言) にすでに被疑者、被告人の人権が登場している (同宣言七条)。 これに対して犯罪被害者の人権が国際的に注目され出したのは、一九六〇年代であり、 国連における権利宣言の形をとったのは一九八五年の国連犯罪被害者の権利に関する宣言であった。

  日本でこの問題の本格的な取り組みが始まったのは、一九九一年犯罪被害給付制度十周年シンポジュームの頃とされる。
  被疑者、被告人の権利保障が十分というのでは決してない。これに比べて犯罪被害者の保障が弱いという比較論ではない。
  それははじめて人権問題として着目された。放置された人々に社会が気がついたのである。
  (犯罪被害者の心の傷 小西聖子 白水社 犯罪被害者問題の研究 成文堂など高沢浩一編)

  新しい人権問題、とはそういうことであろう。

  これにメディアが取り組んで来た実績は、十分とはいえないが、それは存在するし、新聞の連載企画、 テレビのドキュメンタリー企画などで発表されてきた (西日本新聞、北海道新聞、朝日新聞の各連載。民放連賞を受賞した作品など)。 有志の取り組みとしては、「犯罪被害者」 川原理子 平凡社新書、「犯罪被害者が報道を変える」 岩波書店刊がある。

  新聞協会、民間放送連盟などの意見書を見て感ずるのは、この新しい人権問題にメディアがいかに取り組み、 また今後取り組もうとしているか、その方針と志がほとんど見えないことである。

  犯罪被害者、遺族、支援のNGOの人々は現実に犯罪被害者、遺族の社会復帰、支援に日々取り組んでいるのだから、 メディアの問題に取り組む実践と志向性が見えなければ、強い連帯はのぞむことはできない。一方、警察はメディア、 市民団体に対して研究と取り組みで一日の長があるように見える。この点で、メディアは警察に押されている印象をぬぐえない。

  問題その2 犯罪被害者の声と、それに耳傾ける記者の苦闘と交流が見えない

  高橋シズヱさんにお会いする。河野義行さんにお会いしてお話を伺う。猪野詩織さんのお父さん、お母さんにお会いする。
  どのお宅にも毎日の日常の生活があり、ご近所との交流があり、ご家族の葛藤があった。

  そして、長い時間をかけてお話を伺うと、必ずといってよいほど、発生直後にピッタリと現場に張り付いている警察と、 押しかける集中豪雨型取材の記者と、その人々とは、一線を画して、人として寄り添い、悲しみと辛さと、 ときには笑いを共感する記者のことが聞かれた。

  それは、取材という 「仕事」、取材という 「ビジネス」 をもう一つ越えて、あえて自分の良心というところに問題を戻そうとする、 メインストリームとは違うジャーナリストたちのようであった。

  それらの記者と被害者の交流は、それぞれ結実して、事件の本質を歴史に刻む作品を残している。
  疑惑は晴れようとも (文春文庫 河野義行)
  桶川ストーカー殺人事件─遺言 (新潮文庫 清水潔)
  NHK 高橋シズヱさんの番組

  こういう到達と、それを獲得した第一線の苦闘からみて、この問題をどうみるのか、 というメディア総体の検証があってよいと思われるがどうだろうか。

  問題その3 警察の情報公開との関連で

  警察の保有する情報の発表は、広報活動であって、行政情報へのアクセス権を請求権的に構成する厳密な意味の情報公開とは異なる。
(警察学論集 三六巻六号 倉田潤 「情報公開制度に係る諸問題 参照)

  しかし、警察もまた行政機関の一つであってその保有する情報には公共性があること、その情報が、 市民に共有されなければならないという点では、発表─広報のあり方も、 市民のアクセス権をもとにする情報公開も同じ文脈の中で検討されなければならない。その意味で、実名、 匿名公表問題も広義の情報公開の問題として論ずることができる。

  もともと、被疑者が犯したとされる容疑事実、被害者の氏名という、公務員法上守秘の対象となる事実を、 警察がいかなる権限で公表(発表)しているのかについては、十分な法的解明はされてきていない。

  組織法である警察法に定められた広報権限にもとづいてかかる公表が行われているのであろう。

  さて、情報公開法法制では、警察の保有する犯罪に関する情報はどのように扱われているか。
  都道府県情報公開条例では公安委員会が実施機関から除外されていた。 二〇〇一年施行の情報公開法では国家公安委員会を実施機関に含んだ上で公安の維持、 捜査等に支障があると認めることについて一定の理由があるときは公開の例外とする旨の規定がある (情報公開法五条四号)。 本稿執筆にあたって調査したところでは、情報公開法施行以後すべての都道府県での情報公開条例で法施行以降、 公安委員会を公開実施機関とする旨の改正があった。しかし、公安情報を一定の要件で公開の例外とする点では、法と同様である。

  法と条例の規定からすると被疑者名、被疑事実名、被害者名は、情報公開の対象とはならないことになる。現在の事件、 事故に関する警察発表は、知る権利の実現としてではなく、 警察の広報活動の反射的利益をメディアが「恩恵的」「特権的」に享受していることにすぎないことになる。

  アメリカの連邦情報自由法では、公開例外は捜査の妨害、プライバシーの不当な侵害の場合と限定的であり (同法七条)、 ミネソタ州情報公開法など州法では逮捕情報は公開の対象、 たとえばミネソタ州情報公開法 (Data Practices Act 13.82 Law enforcement data. subd.2では arrest data) (逮捕情報) が公開の対象とされ、被害者情報については、同項 (d) が原則公開を規定している。またスウェーデンでは、 逮捕から四八時間以内に行われる裁判所の勾留決定を記載した勾留状は情報公開の対象となるため、 身柄拘束情報は公開後短時間で公開の対象となるのである (日本では逮捕状、差押捜索令状などの起訴前司法文書には、 メディアがアクセスする手段はない)。欧米ではこれらの公開の前進について、メディアは少なからず貢献している。

  日本では、右に述べたような起訴前刑事事実の情報公開に関する欧米との隔たりについて、その変革について、 メディアの研究と取材、報道は関心が極めて低かった。

  今回の犯罪被害者の氏名発表の是非、警察にこれを委ねることの是非をめぐる論議の中でも、 警察公安情報の公開の視点からの論評、報道はほとんど紙面や番組に出ていないのは、残念であるし、説得力に欠けると考える。

  また、情報公開と個人情報保護の両方に関わる問題として、自動車ナンバー読み取り装置 (Nシステム)、 顔認識システムの問題がある。紙幅が許さず詳述できないが、前者は主要幹線道路の要所に警察により設置された、 全通過車両のナンバー読み取り、記憶装置であり、最近の赤ちゃん連れ去り事件の捜査にも使われた。 後半は、一部の空港や地下鉄駅などに設けられ、乗降者の顔を読み取って、要監視人物をマッチングで割り出す仕組みである。 情報がいつまで保管され、いかなる目的で活用されているのか、濫用の危険はないのか、についてチェックが行われておらず、 「警察による監視の闇」 ともいうべき問題である。紙幅がなく詳述できないが、「匿名社会の闇」 も、監視の闇とも関連づけて、 研究、取材され、報道されるべきであろう。

  まとめ

  個人情報保護法施行後の十ヶ月は、つくづく近代立憲主義の下での個人と社会の関係を考えさせた。こんな風にである。

  一人ひとりの市民は社会に参加すること、他の市民と交流すること、を予定されているはずである。 その前提が危うくされているのである。市民一人ひとりが、「自分のことは放っておいてほしい。 自分に関する情報は、私がコントロールする」ということをばらばらに主張しはじめて国家に保護をもとめ、 一方、市民の側で権力が個人を監視していることに無関心であることを誰も批判せずに放置すれば、 啓蒙思想家たちが構想した社会は、深い危機にさらされている、ということではないか。 外ではなく内部から民主主義社会の危機が押し寄せている。

  この危機に本格的に取り組まなければ、メディアだけが自由であるというわけにはいかないであろう。