日本鋼管訴訟

『軍縮問題資料』 2006年12月号 梓澤和幸


  この事件の原告金景錫(キムギョンソク)氏は、戦時強制動員(強制連行)によって日本に連行され日本鋼管川崎工場で働かされた。 1940年代日本の鉄鋼業界は戦時における労働力不足を補うため、朝鮮人青年を移入することを企てた。

  朝鮮人を強制連行し、日本で労働させるについては「募集」「官斡旋」「徴用」の三つの段階があったが、この事件は「官斡旋」の段階でおこったものである。 原告金景錫(キムギョンソク)氏は、川崎工場において民族差別に憤った同僚の朝鮮人労働者とともにストライキに参加し、首謀者として疑われ、 川崎工場のなかで日本鋼管従業員を含む男らに拷問され、重傷を負い、その加害責任を追及するべく一人で異境の地で裁判を起こして闘った。 これは当初は孤独であったが、しだいに良心ある人々の共感を獲得し、やがてささやかながら巨大な意味を持つ成果を獲得した韓国人の物語である。

1、連行の経過

  金景錫(キムギョンソク)氏は、1942年、朝鮮半島慶尚南道(キョンサンナムド)から日本鋼管に連行された朝鮮人労働者の一人であった。 長兄の連行を回避しようとした父は、当時の最小の行政単位である面長と交渉し、面長の指示により京城職業紹介所に出頭し、兄の身代わりとして日本に連行された。 金景錫(キムギョンソク)氏の父は民族意識の高い人であり、家系の承継のため長兄の連行を回避したかったのである。しかし、この長兄ものちに日本に連行されたままでいまだに消息の詳細は判明していない。金景錫(キムギョンソク)氏は、面長の命令で訪れた京城(現 ソウル)の職業紹介所からどこに連れて行かれるのか、いかなる雇用条件か、いっさいの説明もなく日本に連行されてきた。京城から釜山までは汽車に乗せられたが、ここですでに朝鮮総督府からも役人一名、現地特高から一名、日本鋼管の補導員も引率の監督者として乗車しており、国と企業が連携して連行が行われた。引率にあたっては、朝鮮人たちは列車の外に出さず、客車に他の乗客も乗せず、便所に行くのも許可制、相互に監視させる団体責任制がとられた。

  釜山から下関までは船、そこから岩国を経由し川崎まで連れてこられた。金景錫(キムギョンソク)氏は、川崎の日本鋼管第二報国寮に入寮させられた。

2、労働の実態

  第二報国寮では6畳間に6人が詰め込まれた。労働は過酷で、昼夜12時間の2交代制であり、1週間ずつ夜昼が交代したが、休日も認められなかった。 金景錫(キムギョンソク)氏は、クレーンの運転を担当させられ、高温、多塵という悪環境であった。

  賃金は当初説明された1ヶ月80円のわずか1割、8円だけが手取り額であった。仕事中でも、宿舎においても、軍を除隊した監視員らに暴力的に監視されていた。

  東京地裁民事部の一審判決は、労働の実態について次のように認定している。

 2 原告は、被告会社の第二報国寮に入寮させられ、六畳の部屋で六人の同僚と起居を共にした。原告は、被告会社においては、 創氏名である「金城景錫(かねしろけいしやく)」という名で呼ばれた。寮には二名の軍隊経験を有する指導員が配置され、原告ら朝鮮人労働者を監視していた。 故郷から来た手紙は、指導員が中身を見た上で、労働者に渡された。また、労働者から発信する手紙は、日本字で書くように指示され、 指導員のところへ開封したまま持参し、発送は指導員の手に委ねられた。

  食事は、指導員から配られる食券で川崎製鉄所正門近くの須田町食堂において提供されるものを摂取することとされたが、 麦飯にうどんくずを混ぜた御飯すりきり一杯、おつゆ一杯、それに切り干し大根という程度の粗末な献立が続き、年若い朝鮮人労働者は、重労働の毎日でもあり、 常時空腹を抱えていた。

  原告は、川崎製鉄所で一日一二時間(ただし、土曜日には一八時間)、昼夜勤一週間交替での労働に従事した。原告ら朝鮮人労働者は、 日本人労働者と混って又は組んで働き、日本人労働者の先輩から教わって機械器具の操作使用方法を覚えたが、 彼はその運転が難しく危険なホイストクレーンや一五トンクレーンの運転操作を覚え、日本人労働者の先輩に代わって担当した。 その運転作業は、汗のしたたる高温の中で、防塵装置が施されず防塵マスク等の装具も与えられないままの作業であり、原告らは、 高温、粉塵、落下の危険等にさらされた。

  月給は、川崎までの同行の途中で伝わった八〇円と異なり、名目で二五円程度、実際の受取額としては国防献金、愛国貯金、共済会費、食費、 被服費等の金額を差し引かれた八円程度の金額しか手渡されなかった。

3、鋼管訴訟の核心となった金景錫氏のストライキ参加と日本鋼管従業員らによる傷害の事実

  一審判決は日本鋼管の従業員、私服警官、憲兵などによって、金景錫氏が受けた暴行の経緯、詳細を次のように認定している。

  昭和一八年三月ころ、原告は、川崎駅近くの書店で「半島技能工の育成」と題する本(甲一)を購入した。 右の書物は、被告会社労務次長高濱攻春の発言内容を掲載したものであるが、その中に、「常にだらんだらんしていて、いかにも何か怠惰らしく見える」、 「機能方面が非常に劣るように見うけられる」などと朝鮮人労働者全体を蔑視・侮辱する記載があった。 原告は、右書物を寮に持ち帰って読むうちに右の記載を知って憤概し、同僚の朝鮮人労働者たちに見せた。 これを回し読みした朝鮮人労働者たちは、被告会社の朝鮮人労働者に対する認識を改めて目の当たりにして、不満、憤りを募らせた。

  昭和一八年四月一〇日ころ、被告会社川崎製鉄所の朝鮮人労働者約八〇〇名がその日の就労を拒否し、現場を離脱して、須田町食堂の大食堂に集合した。 集合した朝鮮人労働者たちは口々に「故郷へ帰らせてくれ。」、「会社は謝れ。」と要求した。被告会社は、訓練隊長や現場の組長、指導員などを動員して、 ストライキを解散させようとした。大勢の警察官や憲兵も導入された。第二報国寮指導員の藤倉沖房は、大食堂の壇上に立ち、 「自分の教育が間違っていた。」と言いながら、自分の人差し指を包丁で切り落とした。原告は、事態の発端に責任を感じ、手を挙げて発言を求め、 「捕まった人を返してくれ。」と要求した。

  すぐに、原告は、右ストライキの首謀者として疑われ、憲兵あるいは私服警官によって、川崎製鉄所第二製管課現場事務所に連行された。 原告は、同所で私服警官、憲兵及び被告会社の従業員らに取り囲まれ、私服警官から、「こんな方法で朝鮮の独立が達成できると思っているのか。」と質問され 、私服警官や被告会社の従業員など四、五人によって、天井から吊るされ、相当長時間にわたり、拷問とストライキへの報復として、さんざんに木刀や竹刀で殴打された。 朝鮮人労働者の仲間が「原告を解放したら解散する。」と要求したことにより、原告はようやく釈放された。

  右暴行により、原告は、右肩肝骨骨折及び右腕脱臼の傷害を負った。

  被告会社は、原告に対し、軽い作業に回したが、原告に治療を受けさせてくれず、五、六か月位経過したころ、原告が私病を装って日本鋼管病院に行き、 ようやく手術を受けるなどの入院治療が行われたが、完治せず、右腕脱臼が習慣性脱臼に変わり、昭和一八年一〇月ころまでには症状が固定し、 原告には右肩関節の連動制限の後遺障害が残り、これが現在まで継続している。

  原告は、昭和一九年の五月ないし七月ころ、被告会社の指導員が帰郷治療を許し、そのころ単身慶尚南道昌寧郡の郷里に帰った。 その際、被告会社からは愛国貯金や退職金は支給されず、帰郷旅費も支払われなかったため、友人たちが集めた餞別で帰郷した。

  一審判決は以上のように、日本鋼管従業員らによる暴行の事実と経緯を詳細に認定している。

  さらに注目されるのは一審判決が別項で金景錫(キムギョンソク)氏が主張した強制連行、強制労働は否定したが、 金景錫(キムギョンソク)氏にたいする日本鋼管の関与を次のように明快に認定した。

  原告に対する暴行傷害についての被告会社の関与

  原告をストライキの首謀者と疑い、川崎製鉄所第二製管課現場事務所へ連行して、原告に対し問いただし、天井から吊し、竹刀等で殴打した者について、 被告は、憲兵又は警察官であっても被告会社の従業員又は下請業者の従業員であった証拠はないと主張するが、 その暴行をした者が憲兵か私服警官かの官吏のほか原告が顔を知らないが被告会社の従業員であった旨の原告本人の供述は、 右の暴行の場所、暴行に至った経緯、暴行の動機、態様などの事情に徴すると、信用することができ、したがって、原告に対する暴行傷害につき、 被告会社は、その従業員の手を通じ、これに関与したものと認められる。

  なお、官憲側証拠として、「『特高月報』一九四三年八月分」に、朝鮮人運動の状況のなかで「日本鋼管に於ける移入朝鮮人労務者を民族的に煽動せる事件」として、 本件の記載がある。

4、一審判決の結論と控訴

  1997年5月26日東京地方裁判所民事17部(裁判長 雛形要松裁判官)は、一審判決を言い渡した。 一審判決は、上記のように日本鋼管従業員らの金景錫(キムギョンソク)氏への激しい暴行、事実と傷害の損害について明快な事実認定をしたが、 一方において強制連行の事実と責任は認めなかった。また、事実についての認否を回避し、時効の主張に退避した被告会社の主張を取り上げ、 結局のところ被告の損害賠償責任を認定しなかった。金景錫(キムギョンソク)氏は、ただちに控訴し、舞台は東京高等裁判所に移った。

5、控訴審と和解

  金景錫(キムギョンソク)氏は、上記の通り、一審判決後ただちに控訴したが、控訴審では一審がすでに明快な事実認定をしているところから、 強制連行、強制労働の事実と、法的評価、日本鋼管の法的責任、とくに時効の問題をめぐる法的論点に焦点があたった。ある口頭弁論期日の終了ののち、 金景錫(キムギョンソク)氏が、法廷において日本鋼管の代理人席にその長身を運ばせ、よく響く声で、 日本鋼管の代理人弁護士に自ら話し合いの席に着くつもりはないのか、と紳士的な態度で、しかし、毅然として説いた。 これは私たち弁護団や支援の人たちとは打ち合わせのないある種意表を突く行為であったが、これが一つの重要なきっかけとなって、 金景錫(キムギョンソク)氏の弁護団と日本鋼管代理人の間で、1998年7月から交渉が始まった。

  交渉において最も焦点があたったのは、会社の法的責任の存否、その表現であった。会社は和解文書に会社の法的責任がない、と明記することを強く主張した。 しかし、一審判決が明快に暴行傷害の事実と会社の従業員の関与を認定している以上、その線からの後退は許されない。

  この点において、双方は譲らず、一時は和解成立は困難かとも思われた。しかし、双方の努力により、ついに9ヶ月の交渉ののち、 1999年4月6日当事者間の交渉を経た上で、本件は和解に至った。

  和解が成立したこの日、鬼頭季彦裁判長が、和解条項をよく通る声で読みあげた。満席の傍聴席から拍手が起こるという珍しい場面もあった。

   (注 控訴人とは金景錫氏であり、被控訴人とは日本鋼管のことである)

和解条項

一、控訴人と被控訴人は、韓国と日本の過去の歴史において不幸な一時期があったことを真筆に受け止め、今般以下のとおり和解することとする。

二、控訴人は、一九四二年当時、戦時という特殊な状況、諸般の情勢の下、兄の身代りに已むを得えざる苦渋の選択として祖国より日本に渡り、 被控訴人の川崎工場において労働し、一九四三年四月、工場内で発生した暴行事件によって重症を負い、重大な後遺症を残したと主張する。 これに対し被控訴人は、一部資料により、被控訴人構内において同年何らかの騒動事件が発生したことは推察できるものの、 当該事件と控訴人の関わりは判然とせず、控訴人の主張を確認する手だてはないと主張する。

  当時から五〇年以上経過した今となっては、当該事件の加害者を特定することは極めて困難であることから、控訴人は、 本件については被控訴人に責任を問うことは法的に困難が大きいとの認識を前提にするもやむを得ない、一方被控訴人は、 当該事件に巻き込まれて負傷し障害が残ったとの控訴人の主張を重く受けとめ、控訴人が障害をもちながら永きにわたり苦労したことに対し、 真筆な気持ちを表するものであり、その意思を表するため、金四一〇万円を支払う。

三、控訴人と被控訴人の間には、前項に定める外に何らの債権債務のないことを相互に確認する。

  ここに見られるように、日本鋼管は暴行傷害の法的責任を認めたものではないが、一方において、金景錫(キムギョンソク)氏が「障害をもちながら苦労したことにたいし、 真摯な気持ちを表す、」というものであった。和解当日以降の報道の反響は、きわめて大きく朝日、毎日、東京、中日、産経、日経、ジャパンタイムスが報道した。 外国メディアでは、原告代理人が直接取材を受けたメディアだけをあげても、ハンギョレ(韓国)、KBS(韓国)、タイム、オーストラリアの放送局などがある。 和解条項の微妙な妥協的表現は一挙に吹き飛ばされ、企業が強制連行した朝鮮人労働者の暴行傷害事件の和解成立として大きな反響を呼んだ。

6、一審判決と和解を振り返って

  控訴審の和解を実現させた要因の最大のものは、日本鋼管従業員を含む人々の暴行を明確に認定した一審判決の事実認定であった。 この事実認定を実現した大きな素因は、金景錫(キムギョンソク)氏の驚くべき記憶力により、 事実の詳細な再現を獲得した一審の原告本人尋問(3回の口頭弁論期日をもちいた)である。この本人尋問の結果により、 一審判決は日本鋼管従業員らの暴行、傷害の事実を認定する判断を示した。

  この判断は成功的な和解をもたらした大きな要因となっている。

  次に大きな要因は良心的な日本の人々と支援運動の存在である。当初、この訴訟は金景錫(キムギョンソク)氏が手書きで起こした本人訴訟で始まった。 ところが、これを知った谷川透氏をはじめ、全造船日本鋼管分会、神奈川シティユニオン、山田昭二(元立教大学教授)、 古庄正(駒澤大学教授)らによってしだいに良心と支援の輪が拡がり、それは被告日本鋼管にとって無視できない力となっていった。 私を含む7名の弁護団、筆者、鵜飼良昭、羽倉佐和子、桑原育朗、米倉勉、三木恵美子、森川文人もこの支援の人たちのお引き合わせによって、 金景錫(キムギョンソク)氏と遭遇することができたものである。

  さらに、この結果を迎えることができた要因として、日本鋼管の企業執行部の決断(良心的な判断といってよいだろう)があろう。かく判断しなければ、 アジアにおいてしかるべく企業的成功を収めることがかなわないとの経営判断があったと、金景錫(キムギョンソク)氏、および、支援者たちと弁護団は理解した。

  金景錫(キムギョンソク)氏は、2006年5月26日午前6時半、ふるさとの春川(チュンチョン)の病院で亡くなられた。喉頭ガンであった。

  訴訟の過程をつうじて国境を越える友人となった谷川透氏に死の1ヶ月前に送信してきたファックスでは、このたたかいの報告書を必ず出してください、 との言葉があったという。さらに、死亡一週間前にもファックスが送られてきた。

  もはや体力、精神力ははるかに昇華して、文章の直接の表現は解読できなかった。
  読むことのできない金景錫(キムギョンソク)氏の、私たちへの最後の遺言を解読する責任は私たちに全的に帰属している。