実名か 匿名か 犯罪被害者の警察発表 原則公開 報道も慎重に 被害者の実名、匿名問題では、警察が保有する情報の公開と発表された情報を報道がどう扱うかという問題を分けて考えるべきだ。 警察情報は警察という権力機関が公権力を行使して得た公的情報だ。 ならば捜査に支障のないかぎり、原則として公開されるという考えかたにたつべきだ。 スウェーデンでは公文書に載った情報は全部開示するという大原則があり、逆に非開示とすべき情報は法律で明文化されている。 アメリカでも、連邦情報公開法で公安情報が開示対象から外れるのは、捜査妨害になる場合やプライバシーの不当な侵害の場合に限る。 権力情報を原則開示とするのは、権力を市民がチェックする民主主義の精神が生きているからだ。 日本ではメディア・スクラム (集団的加熱取材) を防ぐため放送局や新聞社が各都道府県に協議機関を設けている。 だが、四月のJR福知山線脱線事故では、過熱した取材陣が遺族を取り囲み、ひんしゅくを買った。 同じ過ちを繰り返すからメディアが信頼を失っていく。 また、メディアとして犯罪被害者の人権問題にどう取り組むのか、それが見えないのも問題だ。 犯罪被害者の人権問題は一九七〇年代から国際的に議論されるようになり、日本でも一五年遅れで取り組みが始まった。 しかし、いまメデイアはどう取り組むつもりなのか。それが示されないまま実名発表すべきだと論陣を張るのは説得力がない。 スウェーデンでは、名前を報道する際のガイドラインをメディア自ら 「明白に公共の利益に合致しない限り、 実名報道を自制する」 と定めている。氏名の公共性を吟味するのは常識となっており、被疑者、 被害者も名前が出る報道は節度が保たれている。日本もこうした例に学び、報道は慎重であるべきだ。 報道機関は単なる利益追求とは一線を画し、権力に切り込んで権力の隠す情報を市民に提供することが期待されている。 そして、国民の知る権利に貢献する限りは自由を主張できる。 だからこそ、今回の問題のように自由が脅かされた時、メディアは闘うべきだ。 実名主義にこだわってきたメディアの経営者は、たとえ過去の報道への反省や改善が不十分でも、 市民の前に出てきて報道の自由や犯罪被害者報道のあり方を語るべきだ。 そうやって市民との間に 「やはりメディアは自分たちの味方」 という信頼関係を築かなければ、権力側の規制を押し返す力にはならない。 私たちの社会は以前に比べ個人の孤立化が進み、 個人がバラバラであるがゆえに権力から守ってもらおうという意識が芽生え始めている。こうした視点も考えていく必要があるだろう。 (聞き手・椎名宏智)
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